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例年に比べ肌寒かった昭和三十二年七月、二年生を対象に第一回高原教室が開かれた。 旅行そのものが特別だった時代。初の試みへの期待や不安、好奇心で弾む心に流感が冷や水を浴びせた。初日に相磯政広(同)が入院。あっという間に百人を超える生徒が感染した。 猛威をまぬがれた長谷川節(同、旧姓勝亦)、渡辺万知子(同)は寝ずの看病に追われた。「名前も知らない男子の汗をふき、冷水で湿らせた手ぬぐいで冷やした」と振り返る。 五、六人の小集団を単位とし、登山やレクリエーションを行う高原教室。自然の中で寝食を共にし、人格形成を目指す行事は、修学旅行に代わるものとして生まれた。 当時、修学旅行は観光地を回るだけで、名ばかりの“修学”に終わっているのではないかという反省があった。生徒が羽目を外すことも、引率教師の頭痛の種となった。 折しも人間教育の充実を掲げ、振学対策委員会が活発に動き始めたころ。「共同生活を重視し、生徒のエネルギーを健康的に発散させる場はないか」。教員や振対の思いが高原教室として実を結ぶ。 初回の危機にもかかわらず、高原教室が翌年以降も続いたのは、保護者の理解と教員の意欲、何より生徒のたくましい成長が大きい。「生徒、教師、付き添った研修医が互いに助け合い、期せずして“戦友”になった」と教員、伝田朴也の言葉に力がこもる。 学舎を巣立った後も、きずなは途切れなかった。「大変だったというより、思い出と友情が残った」と話す水野隆徳(同)は、恩師や旧友らと「還暦同窓会」に参加する。 友情や自主性をはぐくむ高原教室は、回を重ねるにつれ、県内の教育関係者の注目を集めた。修学旅行の代わりに高原教室を開く学校や、修学旅行で小集団行動を取り入れる学校が現れ、“観光型”の修学旅行は転機を迎えた。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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