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建設計画は創立六十周年事業として同窓会、PTA、振学対策委員会の合同委員会の席上で浮上した。教員石内吉見(大13卒、故人)は、機関誌「若人の家」創刊号の中で「ジャーナリズムにも煩わされず、都市の騒音を離れ、静寂な自然の中で人間とは何かを考えてみたいと思った」とつづっている。 シノ竹や雑木が生い茂る大瀬岬の傾斜地に、教員と生徒が週末などを利用して通い詰め、一緒になって造成した。生物部が第一号のバンガローを建てたのが三十七年五月。以後、美術部、柔道部と続いた。柱にトタンを張り付け、木の床にござを敷いた素朴な小屋だったが、自分たちの手で作った手応えが何より心地よかった。 積極的に「若人の家」を整備し、利用した。四十年夏の開設期間中には、延べ千人が利用している。「若人の家委員会」が開発作業や維持・管理の先頭に立った。バンガロー補修や清掃、宿泊希望者の受け入れ、一年生のオリエンテーションでの指導など幅広く活動した。部長を務めた土屋達郎(昭42卒)は、「先生はついてくるが、自分たちが指導の中心。三年生の時、初めて校旗をあげた時は誇らしい気分だった」と懐かしむ。 「静寂な自然」そのものだった大瀬も開発が進み、次第に俗化していく。機関誌「若人の家」創刊号を手がけた部長、栗原進(昭44卒)は「昔は夜の海をライトで照らすと、ボートにイワシが飛び込んできた、と聞いた。そういう自然がなくなっていく寂しさの一方で、近くのキャンプ場ではしゃぐ若い人を見て、うらやましさも感じた」と多感なころを語る。 老朽化した「若人の家」は六十一、六十二年に業者が入り建て直す。水道や排水設備も充実し、当時の姿をとどめるのは道具小屋として使用されている新聞部の一棟のみとなった。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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