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四十二年当時、生徒数は約千二百人。手狭になる一方、二十三年に建てられた校舎の老朽化も激しかった。前田拓夫(昭45卒)は「窓ガラスは割れ、天井に串カツの串を投げれば刺さり、暴れれば落ちてくるような状態」と使い込んだ校舎を回想する。 三十六年に県から改築の内諾を得たものの、現地改築か移転かをめぐり、学校や同窓会、PTAなど関係者らは揺れた。三十八年五月、PTA総会で移転が決議され、校舎移転対策委員会が発足。移転計画が本格的にスタートした。 新校地の最初の本命は、林野庁沼津営林署が所管する門池北側の三明寺苗園。校長望月庄次郎(故人)やPTA会長松井謙一(故人)らが譲渡を働きかけるが、営林署が首を縦に振らず三十九年十一月、断念。四十年三月には次の候補地を岡宮に絞り込んだ。 岡宮の用地買収は望月、教頭大川亀之助(昭14卒)、校舎改築促進委員で岡宮出身の石井貞二(昭12卒、故人)らが地主を訪ね歩いた。四十一年二月には工事が始まったが交渉は続き、年度末の三月三十一日にようやく全地主の承諾を得た。望月は手記「移転改築おぼえ書き」の中で「交渉はその多くが夜間八時以後に行われ、深夜一時、二時に及ぶことも珍しくなかった」と難航を克明に記す。 四十二年七月、約八万三千八百平方メートルの広大な校地に新校舎が完成した。校舎の引っ越しは生徒も手伝い、香貫と岡宮に分かれて作業した。轉太郎(昭43卒)は「香貫で机やいすをトラックに積み込んだ。ピアノを三階の音楽室へ運んだ」と記憶をたどる。 校舎移転の翌日、自治会が中心になり「香陵を離るるつどい」を開いた。香貫のグラウンドで開会式を行った後、狩野川で「香陵を離るる歌」を歌うなどして慣れ親しんだ香貫の地に別れを告げた。十二月十一日付けの東高新聞は「平常の東高生にはまったく見られぬような神妙な顔があちらこちらに見られた」と伝えている。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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