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終戦を迎えたのは中学三年時。角川書店が出した詩集に心奪われた。「きれいな装丁でものすごく素敵だった。論文は読んでも分からないけど、詩は中学生にも分かる」。古本屋に足を運び、本の貸し借りを通じて同期の重田徳(故人)、太田裕雄(同)らと親しくなる。「何か作ろう」という気分が「鬼の詞」を生んだ。 国語の若手教員茨木清も仲間に引っ張り込んだ。茨木の住まいは仮校舎の用務員室。見知らぬ表題で埋まった本棚がまぶしかった。用務員室は互いの詩や短歌を朗読し、批評しあう輪講の場になった。 歌人の父・博(大13卒、故人)の影響もあり、創作はまず短歌から。「評判が良かった歌が、あとで若山牧水そっくりだと分かってがっかりしたことも」と苦笑する。仲間の詩を読むうち「自分にも書ける」と意欲がわいた。中原中也や立原道造らにあこがれ、見よう見まねで詩作に足を踏み入れる。「模倣は創作への第一歩。準備運動のうちから、この道でやっていく気持ちがあった」とプロ意識の芽生えを自覚していた。 昭和三十年、初の著作「現代詩試論」を刊行。以後、簡潔な表現で日本の詩歌を読み解く「折々のうた」をはじめ、数多くの著作を出す。二十年程前から連句、連歌を詩に置き換えた連詩に取り組み、平成十一、二年に県内で開かれた「連詩の会」には、捌(さば)き手として参加した。 沼中の輪講で膝をつきあわせるうちに「理屈抜きで相手に対して感じる、言葉にならない微妙で確かなもの」をかぎ取る力をはぐくんだ。連詩に取り組む大岡に「こういう経験を別の所でもしてきたのでは」と声を掛けた人がいたという。輪講も連詩も、それぞれの個性が呼応する場。「あらためて考えると、連詩も沼中での経験とつながっているんだね」
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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