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受賞作「美談の出発」は、当時の川村の生活をモデルにした小説。妻と妻の連れ子四人と共に四畳半で生活する筆耕職人の主人公は、貧しさの中で次第に神経をとがらせていく。家庭もぎくしゃくし始めるが、主人公は“人生とはこういうものだ”と現実を受け入れていく。同級生の白石治(昭20卒)は「暗くても、どこかに救いや温かみがある」と受賞作をはじめとする川村作品の魅力を語る。 芥川賞の翌年、文芸部員の田中薫(昭40卒、旧姓深沢)ら四人は、川村に予餞(せん)会での講演を依頼しようと東京・北区の自宅を訪ねた。受賞作を読み、略歴を頭に入れての訪問を、田中は「期待と不安が入り混じった気持ち」と文芸部誌「ミネルヴァ」につづる。 川村は講師を快く引き受け、「何となく何かに反抗したい気持ちがあり、色々校則を破るようなこともした」と沼中での思い出を語った。「近所の子供が捕まえたチョウやトンボを買ってまで逃がす」一方で、強制休学も体験。戦時中にもかかわらず「自分は自分」という姿勢を貫く“反逆児”的存在だった。 白石は「古典から現代文学まで乱読していた。文学青年というより荒っぽさを感じさせる面白い男だった」と川村を言い表す。川村の父・四郎は沼中で音楽を教えていた。「家に遊びに行くとレコードがいっぱいあった」。川村と出会い、音楽も知った。 川村は次第に沼中から足が遠のき、不登校となる。理由はつまびらかではないが一念発起し、祖国のために戦おうと陸軍特別幹部候補生の試験を受けて合格する。 十九年春、航空通信学校へ入学するために川村は沼津を発った。学校側は生徒に見送りを禁じたが、親友の吉村和郎(同卒、故人)の計らいで、沼津駅には二百人程の沼中生が見送りに来た。 後に本光寺住職となった吉村への弔辞に、川村は見送りのエピソードをつづり、「本光寺と和さん(吉村)は、戦後もみんなが友情をかわすセンター的存在でした」と思いを込めた。 川村は平成八年に亡くなり、父とともに本光寺に眠っている。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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