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げた履きの習慣は、物資が不足した終戦直後から始まった。ほとんどの生徒にとって靴や靴下は高級品。比較的安く手に入り、年中素足で履けるげたを重宝した。 元海軍工廠庁舎が仮校舎だった昭和二十一年、芝順照校長は校内の環境美化、生徒の衛生教育などを理由にげた履き禁止を唱える。二十九年には生徒課教員がげた履きをやめるように指導した。しかし、自主性を尊重する東高では教員が強硬手段に出ることもなく、生徒はげたを履き続けた。 大木弘行(昭33卒)は級友と共に、朴歯と呼ばれる高下駄を愛用した。「歯の高さが十センチぐらいあった。歯が減ると職人が入れ替えてくれたが、鼻緒や歯を買ったり、めくれた部分をのみで削るなどして、自分で修理することも多かった」と振り返る。「げたを履いて通学する沼商生や沼工生もよく見かけた」と他校生の姿も記憶に残る。 生活水準が向上し、他校では次第にげた履きが禁止される中で、東高生のげた履きは続いた。端山茂樹(昭39卒)は「新しいげたの方が格好悪くて、わざと歯をのこぎりで切る“げた草履”が男らしかった」とこだわりを思い出す。「崩れた帽子やわざと汚した校章と共に、げた履きも東高だから許されるバンカラの象徴のように思っていた」と自負があった。 自慢のげた履きも、一歩校外に出ると反応はさまざま。「自由を謳(おう)歌する姿がうらやましい」「ユニークな校風」と他校から声があがる一方で、女子高の文化祭でフォークダンスの輪に入れてもらえなかったり、映画館でガラガラとげたの音を響かせ、ひんしゅくを買うことも度々あった。 校舎が移転し、自転車やバスで通学する生徒が増えると、げた履きは下火になっていった。教員岡部敬武は「五十年代の終わりには、げたは少数派だった。七、八年前を最後に見かけない」と話す。現在は、応援団や野球応援の「げた踊り」に受け継がれている。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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