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第6部 切り開く

知事

社会基盤の充実に尽力
「新聞やテレビのニュースは欠かさない」と話す斉藤滋与史元県知事=富士市比奈の自宅
 昭和六十年七月、自民衆院議員の斉藤滋与史(昭11卒)が突然、一年後の知事選へ出馬表明する。国政では信念のない政治家が多いことに嫌気して「こんな連中とやっていられるか」という思いもあった。「静岡県は地力があるが、活力や文化がない。何とかしなければ…と思った」。

 知事になった斉藤は静岡県が東西に広く、大きい県であることを改めて認識する。「東、中、西がばらばらで一つにまとめることが私の仕事だった」と振り返る。長年の懸案だった社会基盤の充実に取り組み、第二東名の建設促進、静岡空港基本計画の策定、国道136号バイパス修善寺道路の建設などを手掛ける。グランシップの建設や浜松への文化芸術大学の開設も道筋をつけた。桶ケ谷沼のベッコウトンボや柿田川の自然保護など環境派知事としても知られ、通産省や清水市が推進した清水火力発電所計画に対し、本来なら国に協力する立場の知事が「かまどを(富士山が見える)玄関口に建てる家がどこにありますか」と批判。この一言で火発計画を凍結させた。

 斉藤は大昭和製紙の創業者斉藤知一郎の二男に生まれ、同社副社長から政界入りした。吉原市長、合併後の富士市長を経て、四十四年の衆院選で初当選。以来、連続六期国政で活躍。鈴木内閣で建設大臣を務めた。

 沼中では水泳部で活躍。「ロサンゼルス五輪に出場した小池礼三さん(沼津商出身)とも練習で一緒に泳いだこともあった」と思い起こす。

 政界入りの動機は「戦争による犠牲者の救済を」という願いからだった。「満州から復員したら、戦友のほとんどが戦死していた。残された遺族に手をさしのべてやらねばと思った」。国政では一貫して福祉の道を歩き、心身障害児対策法などの成立に尽力した。

 気さくで誠実な人柄、ウイットに富む話術で人心をつかみ、知事二期目は共産を除く全政党の支持を受けた。しかし、病気で倒れると「県政の停滞は許されない」と任期途中で辞任し、「進退は潔く」の持論を実践した。

 八十三歳になった今でも新聞やテレビのニュースは欠かさず県政や国政の行く末を見守る。「小泉人気はすごいが、前の森(喜朗)さんがひどかった。ラガーマンなのにスポーツマンらしくない。最近は特に政治家らしい政治家がいなくなった」と寂し気だ。

(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。

掛中・掛西百年史 榛原高校百年 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年

引佐高の百年 田方農高の百年

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