<58>

第6部 切り開く

警察

熱海の渋滞解消に全力
 「俺は眠れない。こんな大金を投じて失敗でもしたらどうする気だ」。昭和四十八年のこと、熱海署長から深夜の電話が鳴った。完成が間近になっても、一部の住民が白紙撤回の声を上げている。プロジェクトの指揮を執る増田隆司(昭27卒)は「警察にいられなくなる」という思いが幾度も脳裏をよぎった。

 美しい海岸線を散歩する浴衣姿の観光客。豪華ホテルが放つ百万ドルの夜景。その影で、首都圏から伊豆に入る車が温泉街にあふれ出した。大動脈・国道135号の慢性的な渋滞が都市機能をマヒさせていた。

 県警本部交通規制課長補佐だった増田が、国道135号の一方通行への切り替えにこだわったのは「血流が止まれば人が死ぬように、渋滞が起きれば都市は死ぬ。このままでは市民生活が打撃を受ける」という考えからだ。交通畑の専門家としての確信が反対の声を抑えた。

 下り車線は国道からさらに海岸沿いを走る通称「なぎさ通り」を整備し、う回させる。国道の上下線分離は全国でも珍しかった。交通先進国スイスでの研修で学んだ計算式に合わせてシミュレーションを繰り返し、県や国の合意を取り付けた。

 事業が完了したのは昭和四十八年九月四日午前七時。大動脈が一気に流れ出す光景に、増田は「署長や町の人たちから祝福され、胸のつかえが吹き飛んだ」と目頭が熱くなった。

 浜松中央署長に着任した昭和六十年前半は、暴力団一力一家追放運動のまっただ中。住民側のリーダーが刺傷された。増田は五百人以上の部下に「警察のメンツにかけて、同じことは絶対にさせるな」と鼓舞した苦い記憶がある。

 平成七年の阪神大震災。当直から連絡を受けた警察庁警備局警備課長の佐野智則(昭41卒)は、まだ現地の惨状が伝えられないテレビを見てピンときた。

 「画面上に神戸だけ震度が表示されない。何か大変なことが起きたはずだ」。とっさの判断で、全国の機動隊の出動準備を電話口で指示した。佐野は「情報がないことが情報だった。独断だったが、結果的には素早い対応だった」と胸を張る。

 内閣情報調査会総務主幹時代に構築した官邸の情報集約システムは震災の教訓が生かされ、ペルー大使館占拠事件や米国で今も続いているテロ事件でも活躍した。

 佐野は七年前に、天皇陛下が沼津御用邸を訪問された際に、久しぶりの帰郷が実現した。千本松原の美しい景観に「子供のころに海水浴した懐かしい思い出が込み上げた」と振り返る。天皇陛下が初めて沖縄訪問された時の沖縄県警本部長や宮城県警本部長、中国管区警察局長も歴任した。

 現職では、続富久(昭42卒)と崎田則次(昭47卒)が県警の警視。二人は昨年まで総務調査官として机を並べ、県警本部長の秘書や渉外担当として力を合わせた。

(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。

掛中・掛西百年史 榛原高校百年 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年

引佐高の百年 田方農高の百年

静岡新聞へ