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第6部 切り開く

製紙(上)斉藤了英

母校愛を象徴する巨木

斉藤了英さんが香陵記念館の完成を記念して移植したクスノキ=沼津東高
 香陵記念館の正面玄関にそびえ立つ大きなクスノキ。「製紙業界のドン」「東海の暴れん坊」などの異名を持つ大昭和製紙の元名誉会長斉藤了英(昭9卒、故人)が記念館の完成を記念して「母校よ永遠なれ」の思いを込めて富士市大渕から移植した。

 九十周年を記念して香陵記念館の建設が計画されたのはバブル崩壊で経済が失速し始めた平成三年。寄付が集まるか心配した同窓会長の庄司辰雄(昭9卒、故人)が同期の斉藤を大昭和の東京本社に訪ね、協力を依頼した。斉藤は「わかりました。費用のことは心配しないで日本一の記念館を造って下さい。最後は私が責任を持ちますから」と答えた。この一言で庄司は記念館建設を決断した。斉藤は一億円を寄付し、斉藤から電話を受けた同期のスルガ銀行会長岡野喜一郎(昭9卒、故人)も導火線となる寄付に協力した。

 斉藤は、カネやモノがない時代に野球部や陸上部を物心両面から支援した。当時、野球部員だった伊藤忠商事会長室伏稔(昭25卒)は「戦後の野球部の強さは大昭和野球部の指導のお陰」と振り返る。沼中時代陸上部に所属した斉藤は、後輩の部員全員にカシミヤのユニフォームを贈り、部員が全国大会で活躍すると熱海の旅館を借り切って祝勝会を開いた。陸上部の後輩で、のちに大昭和製紙常務取締役を務めた伊藤孝彦(昭28卒)は「了英さんは一見、豪快に見られがちだが、普通の人では真似のできない緻密さと繊細さがあった」という。

 斉藤は大昭和製紙創業者斉藤知一郎の長男で、製紙原料の海外調達に先駆的な役割を果たし、同社を世界大手の製紙メーカーに押し上げた。自ら育て、監督を務めた野球部は都市対抗で全国制覇を果たした。昭和三十二年の静岡国体では県体育協会長、県選手団長として最終聖火ランナーを務め、大昭和を中心とした選手の活躍で“オレンジ旋風”を巻き起こした。美術品収集家としても知られ、平成二年にゴッホの「医師ガシュ博士の肖像」を史上最高額の百二十五億円で落札するなど、国内外で話題を集めた。

 カナダ工場視察の際、斉藤の案内役を務めた取締役白老工場長の長田邦夫(昭39卒)は「長期的展望を持ったスケールの大きな人だった」と称える。取締役総務人事本部長の加藤信博(昭40卒)、元常務取締役の田上穣(昭18卒)も沼東、沼中のOBだ。

(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。

掛中・掛西百年史 榛原高校百年 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年

引佐高の百年 田方農高の百年

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