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旧制静岡高を経て東大機械工学科で学んだ小林は「まだ小さな会社で技術屋が求められていた。こちらの意思とは関係なく入社が決まっていた」と話す。国策にも乗って会社は事業を拡大。太平洋戦争が始まる十六年には現本社の沼津工場が建設された。今も現役の事務所の屋根には対空監視台がそのまま残る。 敗戦で会社はどん底に突き落とされる。東京本社は空襲に遭い、戦後、各地の工場は接収された。GHQが航空機製造を禁止して仕事も無くなった。グラウンドは芋畑となり、社員を養うためになべやかまを作った。 小林は二十二年に沼津工場長、五年後に社長となった。電話器用の磁石発電機製造で足掛かりをつくり、二輪車用などの電装品、小型発電機、精密モーターの製造を進めた。「うちのマグネトはどこでも評判がよかった。欧州まで製品は届いていた」。社長を十八年間、会長として七年間在職し、隆盛期を支えた。県教育委員長や東部経営者協会長も務めた。 陸上競技界でも活躍した。小林は沼中で陸上部。戦後の物資のない時代にはOB会(香陵陸友会)の初代会長を引き受け、後輩らの面倒を見た。当時、同社のグラウンドは小林の肝いりで整備され、県東部唯一の公認競技場となり、数多くの公式大会が開かれた。 同社陸上部は三十年代には全日本級の選手を抱え、静岡国体でも活躍してオレンジ旋風の一翼を担った。小林は「国体のころは会社に速い選手が何人かいた。強かった」と懐かしむ。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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