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第6部 切り開く

製造業(電気機器)

敗戦を乗り越え力強く
93歳を迎えて壮健な小林完さん=裾野市深良
 戦争の足音が迫る昭和八年。小林完(大14修)は創業間もない国産電機に入社した。軍用機も含めて国内の航空機に取り付けられる点火装置と発電機などの電装品は輸入品がほとんどで、「国産機には国産品を」の掛け声で設立された会社である。

 旧制静岡高を経て東大機械工学科で学んだ小林は「まだ小さな会社で技術屋が求められていた。こちらの意思とは関係なく入社が決まっていた」と話す。国策にも乗って会社は事業を拡大。太平洋戦争が始まる十六年には現本社の沼津工場が建設された。今も現役の事務所の屋根には対空監視台がそのまま残る。

 敗戦で会社はどん底に突き落とされる。東京本社は空襲に遭い、戦後、各地の工場は接収された。GHQが航空機製造を禁止して仕事も無くなった。グラウンドは芋畑となり、社員を養うためになべやかまを作った。

 小林は二十二年に沼津工場長、五年後に社長となった。電話器用の磁石発電機製造で足掛かりをつくり、二輪車用などの電装品、小型発電機、精密モーターの製造を進めた。「うちのマグネトはどこでも評判がよかった。欧州まで製品は届いていた」。社長を十八年間、会長として七年間在職し、隆盛期を支えた。県教育委員長や東部経営者協会長も務めた。

 陸上競技界でも活躍した。小林は沼中で陸上部。戦後の物資のない時代にはOB会(香陵陸友会)の初代会長を引き受け、後輩らの面倒を見た。当時、同社のグラウンドは小林の肝いりで整備され、県東部唯一の公認競技場となり、数多くの公式大会が開かれた。

 同社陸上部は三十年代には全日本級の選手を抱え、静岡国体でも活躍してオレンジ旋風の一翼を担った。小林は「国体のころは会社に速い選手が何人かいた。強かった」と懐かしむ。

(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。

掛中・掛西百年史 榛原高校百年 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年

引佐高の百年 田方農高の百年

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