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豪夫の三男喜久麿(昭18卒)は「祖父が摩擦を起こすと父が和らげた。祖父と父のコンビがあったからこそ、銀行は発展することができたのではないか。優しく温厚だが、曲がったことの大嫌いな人だった」と話す。揮ごうを頼まれても喜太郎が「勤倹貯蓄」なら、豪夫は「以和為尊」だった。三十九年、頭取在職七年で急逝する。 第三代頭取になったのが長男喜一郎(昭9卒、故人)。四十七歳だった。法学部出身の喜一郎は事務規定を明確化するとともに、時代を見越した先見性を随所に発揮する。四十六年、全国の地方銀行に先駆けて長泉町駿河平に情報集計所を建設し、全店舗のオンライン化に取り組んだ。CD(現金自動支払機)の導入にも積極的だった。 一方で、地域の文化振興に並々ならぬ情熱を注ぎ込む。もともとは文学部志望で多彩な趣味を持ち、文学や芸術を愛した。駿河平に現代絵画の巨匠、ベルナール・ビュッフェの作品を集めた美術館を建設。親交のあった芹沢光治良(大4卒、故人)や井上靖(大15卒、故人)の文学館も次々に建てた。 ビュフェ美術館の正面には「この大地に文化の花さくことをのぞむ」と刻まれている。地方に拠点を置く金融機関の使命を本業だけでなく、メセナ活動にまで高めた。元常務の鎌野篤治郎(昭26卒)は「本当に地元のことを真剣に考えていた人。銀行業では地元中心に、気配り、目配り、人配りを徹底し、文化振興への熱意も強かった」と振り返る。 五十六年、喜一郎は会長となり、弟の喜久麿が第四代頭取に就任する。喜久麿は、大規模地震に備えて駿河平には貯水槽や自家発電装置、燃料などを整備し、地震対策を進めた。銀行家とは別の顔が喜久麿にもある。沼中時代から好きだった昆虫研究が高じて、頭取退任後はチョウの分類や分布研究に取り組んできた。集めた研究書や文献は国内随一の充実度。大学や研究機関から照会があるほか、自身も研究論文を書く。毎朝八キロの散歩が日課で、登山も大好き。七十六歳となった今年の夏も北アルプス・西穂高岳に登ってきた。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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