![]() | <83> | 2002年1月25日掲載 |
想像をはるかに超える大きな球場で、大観衆の熱気を感じながらの入場行進。スタンドが一面真っ白に映り、ボールも見定められないほど舞い上がった。1回表、先攻沼中はあっさり三者凡退。その裏、愛商は手堅くチャンスをつくり、沼中はエラー絡みで2点を許してしまう。必死の反撃もむなしく2―0のまま大舞台の幕は降りた。「夢の中で試合が終わった感じ。帰りのトラックで初めて泣いた」と3番杉本喜雄(昭23卒)は明かす。 野球部は開校間もない明治三十四年から活動を始める。戦争で活動が途絶えるが、昭和二十年十二月、海軍工廠(しょう)の仮校舎で杉山通三(昭22卒、故人)、鷲巣英治(昭22卒)ら四年が中心になって復活を呼び掛けた。 翌年一月、朝日新聞が夏に全国大会開催を予定している事を社告で発表する。大会を意識し、本格的な練習を始めたが「県大会で準決勝まで進めばNHKラジオで放送される。そこまで残れたら」とだれもが全国行きなど考えもしなかった。 エース村田弘(昭25卒、故人)、打線の要・杉本を軸に沼中は県大会、山静大会を勝ち進んだ。「二人ともだんだん調子が上がっていった。山静大会もいつも通りの試合をした」と杉本は振り返る。 物資不足の終戦直後で用具をそろえるにも一苦労だった。県大会出場に合わせ、ユニホームと帽子はそろったが、ストッキングは内野手、外野手で種類が分かれ、全国大会でも注目を集めた。移動や県制覇の祝勝会など斉藤了英(昭9卒、故人)をはじめ多くのOBが物心両面で支援した。 村田は卒業後、阪神タイガースに入団した。沼中・東高OBで唯一のプロ選手。 安藤喜春(昭34卒)は遊撃手としてノンプロ大昭和製紙で活躍し、北海道・白老工場の野球部監督に就任。四十九年の都市対抗で北海道チームを初優勝に導き、黒獅子旗を手にした。本社野球部監督となった五十五年、大昭和野球部に三回目の優勝をもたらした。芹沢利久(昭25卒)は母校監督の後、立教大野球部の監督を務めた。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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