![]() | <90> | 2002年2月9日掲載 |
慶応大のホッケー部員だった山川の兄・晴道は、「ホッケーをやるなら応援する。国体へも行けるぞ」と進康にアドバイスする。冬場、水を抜いたプールで竹や木の棒をスティック代わりにボールをたたいて遊んでいた鈴木らは「ホッケーも同じ様なものではないか」と飛びついた。創部への決意をつづった趣意書は同年六月に代議委員会で認可され、翌年には教員・洞口満男らを顧問に県内初のホッケー部が誕生した。 用具の準備や技術指導は慶応大が支援に回った。「明治時代、日本で初めてホッケーを取り入れたのが慶応。第一、二回の合宿先は沼中だったと聞いている」と鈴木は思いを巡らせる。 用具もそろわず走り込みが練習の中心。見知らぬスポーツへの好奇心も手伝い約百人が部に参加するが、最後には八人程度に落ち着いた。新設のホッケー部は、運動部でひしめき合うグラウンドの隙間を縫ってボールを追った。 県内に他チームがなく、対外試合はもっぱら関東勢。二十六年には関東リーグ戦で優勝し、同年の広島国体で準優勝に輝いた。四十五年のインターハイでは監督・山田昌弘(昭40卒)の下で畑山竜彦(昭46卒、故人)らがベスト8に勝ち進むなど、県内外に存在感を示した。 卒業後もホッケーは続く。OBチーム「香陵ホッケークラブ」は三十二年の静岡国体で一般男子三位の好成績を残している。上村幸夫(昭41卒)は明大からメキシコ五輪に出場した。 県内ホッケー界の担い手も輩出した。鈴木は平成七年から県ホッケー協会会長。武藤昌宏(昭30卒)、川口泰弘(同)の両副会長らと共に、来年開催の「わかふじ国体」に向けて指導力強化、開催準備に奔走する。五十五年にホッケー部を作った伊豆中央高では関野博文(昭47卒)が初代コーチを務めた。六十二年には御殿場西高にもホッケー部が誕生し、教員・渡辺希一(昭46卒)が指導にあたる。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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