<92>2002年2月15日掲載

第7部 鍛える

水泳部(上)

痛みがドルフィン生む
「プールのモーター泥棒を警戒して寝ずの番もした」と振り返る長沢さん=東京都内
 昭和二十九年五月。沼中・東高から早大高等学院を経て早大へ進んだ水泳部キャプテンの長沢二郎は、東京・東伏見の早大プールで平泳ぎから独立して新種目となるバタフライの練習に没頭していた。長沢は、二百メートル平泳ぎで六位入賞した二年前のヘルシンキ五輪への猛特訓でひざを痛めていたが、早大四連覇をかけたインカレが迫っていた。

 当時のバタフライはカエル足(キック)で、ひざに負担がかかった。ひざの痛みをしのぐため、長沢はカエル足の代わりに上下に水をけるビートを時々挟む。思いのほか体が浮き、グンと前に進んだ。思い切って一ストロークで二回のビートに切り替える。後にドルフィンキックと名付けられた“長沢式バタフライ”の誕生だ。

 「タイムを計ったら五十メートルで32秒と日本のチャンピオンクラスを追い抜く勢い。この時は本当にうれしかった」と長沢は振り返る。

 長沢は沼津市獅子浜出身。沼中水泳部に入るが、練習ぎらいで「海で魚を採って遊んでばかりいた」から、沼中のプールではだれからも相手にされなくなった。寂しさに背中を押され、二年の二学期を境に再び練習を開始。「日本一の水泳選手になりたい」と思い始めたことが練習の虫に変えた。

 当時の日本水泳界は古橋広之進らのトップスターがひしめき合っていた。「沼中にも川口義和(昭19卒)、伊海連作(昭22修)ら優秀な先輩が大勢いる。非力で小柄な自分は、みんなが苦手なもので勝負するしかない」と長距離を狙う。中三の第一回スポーツ祭では四百、八百メートル自由形で優勝。泳げば泳ぐほど記録が上がり、自信もわいた。

 兄・重之(昭17卒)の勧めで二十四年春に早大高等学院二年に編入。その年の水泳部納会で、軽い気持ちで試したバタフライが長沢の水泳人生を変えた。ドルフィンキック開発後、長沢は十六の世界新記録をうち立てた。

 ヘルシンキ五輪候補入りを目指し、三月から沼中プールで泳ぎ続けた逸話が残る。「沼中のプールは井戸水で冷たい。三月の水温は一三―一六度。少しでもましになるよう、水を入れ替えさせてもらった。一緒に泳いでくれたり、ドラム缶で風呂を炊いてくれた後輩もいる」と沼中プールでの思い出が鮮やかによみがえる。

(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。

掛中・掛西百年史 榛原高校百年 富士宮農高百年 御殿場高 躍進の百年

引佐高の百年 田方農高の百年

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