![]() | <96> | 2002年2月23日掲載 |
自治会や文化部が次々と生まれ、文化的活動は急速に盛り上がっていた。折しも米国のジャーナリズムについて書かれた本が次々と国内に入り、初代編集長を務めた鈴木や片山純男(同卒、故人)、伊東貞良(同卒)、堀米徹(昭25卒)らは「新聞とは」「真実とは」と仲間内で夢中になって議論を重ね、新聞発行を志した。 取材、記事の書き方、紙面のレイアウトなど見よう見まねで編集に取り掛かった。伊東は「全国紙の本社に見学に行ったり、大阪から新聞を郵送してもらって東京紙と読み比べたこともあった」と思い起こす。印刷は地元新聞社の印刷所などに頼み込んだ。「原稿の差し替えや修正なども、今思えば素人相手によくやってくれた。勉強より新聞作りに身が入った」と堀米。卒業生や東高生行きつけの本屋、レコード屋などを回って広告も集めた。 香陵祭などの学校行事、自治会や部の活動状況を中心に報じ、全校生徒対象の世論調査も行った。美術教員らがカット画を手掛けた「校内点描」、コラム「天邪鬼」など囲み記事にも工夫を凝らした。 タブロイド判で出発した新聞は、ブランケット判に紙面を拡大し、次第に面数も増え、社会情勢も視野に入れた内容になる。全国レベルのコンクールではトップクラスの常連に名を連ね、二十七、二十八年には全国高校新聞コンクールで一位に輝いた。杉山博(昭28卒)は「自治会三会の“監視役”を自認していた。夏休みなどを除き、ほぼ月一回のペースで発行していた」と話す。 “辛口”の論調が時には物議を醸し出すこともあった。顧問・伝田朴也は「何を書くか分からず、口を挟む余地もない。もめごとの間に立たされることもあったが、個性豊かな部員らと共に物事を考える良い機会になった」と懐かしむ。
(文中敬称略)
【注】カッコ内は卒業年。
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