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引っ越し作業はすべて生徒の力で行った。温室のガラスや製茶機、畜産場の牛や豚、鶏、巣に収まったミツバチ、シクラメン。口々に「重い」「まだやるのか」のため息がもれる。足が痛くて、腕はしびれる運搬作業が延々と続いた。遠山宏(昭24卒)は「アロエなどの小鉢を木箱に入れ、駅弁売りのような格好で何往復も歩いて運んだ」と肩にずしりとのしかかった重さを思い返す。 移転先の松ケ尾は、旧校舎から約二キロ離れていた。上級生と下級生で荷物を分担し、旧校舎内の教室や温室、養蚕室、武道場などから、机、書籍、肥料や下草などの備品という備品をすべて運び出した。モッコを担いで牛車を引き、植木鉢を両わきに抱え、豚を一頭一頭追いかける光景は、さながら“アリの行列”。生徒総出の人海戦術が来る日も来る日も続いた。 校庭の植木やずっしりと重い農業機械は上級生が受け持った。大岳強治(昭21卒)は「前庭の松は学校のシンボル。傷つけてはいけないと皆で慎重に扱った」と思い起こす。わが身の五倍もある木を丁寧に掘り起こして牛車で運び、移転後も「新しい土壌にうまく活着するか不安だった」と話す。終戦は戦火を免れた新校舎で迎えた。 沼農はその後学制改革で沼津農業高となり、沼津北部高、沼津城北高と変遷する。学校の様相はがらりと変化したが、松をはじめとする植木の数々は現校舎を新築した際にも仮植し、“生き証人”として守られてきた。同じように苦労して運んだカイヅカイブキやウバメガシなども校内に点在して、豊かな緑が風に揺れている。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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