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開学は難航した。県の設置認可が遅れ、生徒募集に手間取り、農業学校に必要な実習地など各種施設を十分備えるに至らなかった。それでも桜が散りかけた四月下旬、開校式にこぎつけた。 校舎は沼津高等小学校の施設の一部を借り、当初は一年前に開校した駿東高女と分け合う“同居”状態だった。開校後も学校関係者が篤農家を中心に口説いて回るなど、学生集めに心血が注がれた。 入学者は村長の息子など名家の出身が多く、生徒はまじめに勉学を志した。農林科では三カ年の修業科目の中で農産製造や作物及び病虫害、家畜、養蚕、造林などが盛り込まれ、学年が上がるにつれて実習も始まった。秋元豊次郎(明40卒、故人)は学校誌「松ケ尾」の創立七十周年記念号に「温床の作り方、苗の育て方につき説明を聞き勉強と指導を受けた」と促成栽培の基礎を学んだ記憶を書いている。 学校は駿東郡役所や警察署、税務署などが立ち並ぶ沼津の中心部。かつての沼津城の堀の一部が残存するなど、今から想像できない程のどかな様相を呈していた。明治三十九年には学校前に沼津―三島間のチンチン電車が敷設され、通学する学生や市街地を行き来する市民らの喧(けん)騒でにわかに活気づいた。 学校は明治三十六年に卒業生三人を特別科として送り出し、その後五人、十四人―と少ないながらも生徒は順調に学舎を巣立っていく。秋元が「当時の入学者は四十名位と思われ、内一名は水産科であった」とつづった水産科は、志望者の少なさから四十一年に廃止され、校名も「組合立駿東農林学校」に変更となった。農業学校として足場を固めた同校の歴史が一歩ずつ歩み出した。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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