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 第2章 歩み 

三枚橋時代 (1)

環境絶佳な新天地移転
 大正二年三月三日、沼津の中心部から上がった火の手はあっという間に燃え広がり、市街地を真っ赤な火の海に変えた。歴史に残る沼津大火は、民家や公共施設すべてを焼き尽くし、駿東農林学校の校舎も一瞬にして灰と化した。この年の新入生、大島佐重(大5卒、故人)は「(火事の影響で)四月もだいぶ遅くなっての入学だった」と、創立七十周年の「松ヶ尾」に書き留めている。

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眼下に田んぼが広がる好環境にあった三枚橋の新校舎=「80年のあゆみ」から
 三枚橋に新天地を求め、一年後に校舎が完成する。仮校舎の金岡小旧校舎で過ごした落ち着かない日々から気分一新、校舎の前に東西に広がる水田やトマトなどの野菜が色つや良く実る光景など、生徒は農業を目の当たりにできる環境に喜んで通学した。しかも沼津の市街地を眼前に見渡せる高台。大島は「環境絶佳の好条件の下に建設された」と記念誌に胸高らかにつづっている。近くの日枝神社での全校生徒挙げての参拝も恒例となった。

 当時の学校生活の様子を「校友会雑誌」が今に伝えている。大正四年に発刊した待望の第一号は、大正天皇の即位式と同年で「御即位記念号」とされた。校長水野登のほか、卒業生の平井昇(明38卒、故人)ら教師六人の顔も写真で紹介され、農業関連の専門知識を積極的に寄稿した。

 A5判、充実の百三十二ページに盛り込んだ内容からは将来、地域農村を背負って立つ生徒の士気を鼓舞する熱意がひしひしと伝わってくる。明治三十五年の開校以来の卒業生は約二百九十人(大正四年)を超し、農林学校としての発展期でもあった。

 学科の応用として実習が重視され、同誌付属の実習予定表によれば、稲作をはじめ、キュウリやナスなどのそ菜類、ミカンなどのかんきつなど一年を通して多種多様な作物を手掛けたことが分かる。生徒は播(は)種から収穫まで基礎の技術習得に励み、学年ごとに畜産や養蚕、製茶など多彩な科目に親しんだ。収穫の喜びを共に分かち合い、丹精した野菜を展示する農産物品評会も生徒を刺激した。

 会誌第一号には後輩を激励するOBの寄稿が目立つ。卒業して九年目の江本恭一(明38卒、故人)は在校生に向けて「よく勤と倹を守り協力一致農業を勤しみ国家の為め大いに御奮闘せられん」と農村青年の使命を力強く呼び掛けた。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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