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 第2章 歩み 

三枚橋時代 (2)

甲種昇格へ生徒燃える
 袴に下駄のおなじみの通学スタイルは大正十年ごろ、五つの金ボタン、黒地の詰め襟に姿を変える。制服に腕を通すうれしさも手伝い、生徒は進取の気持ちを胸に校門をくぐった。時には教師からゲキも飛んだが、校庭にはテニスボールを打つ快音が響くなどスポーツも盛んになり、学生生活を満喫する。「誠実・勤倹・摂生」の校訓のもと、伸び伸びした校風が培われていく。

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制服も詰め襟姿に変わり、生徒たちは学校生活を伸び伸びと送った=「70年のあゆみ」から
 しかし、関東大震災の余波が冷めやらぬ大正十二年晩秋、転機が訪れる。同じ組合立の御殿場実業や郡立の田方農校など周辺の農学校が次々に県立移管されていく。取り残された格好となった焦燥感から、生徒の間には乙種から甲種への昇格、県立移管、さらには校地拡張及び移転を求める動きが一気に高まった。

 「おらが学校を変えたい」という強いエネルギーが生徒を突き起こし、上級生を中心に総決起大会を開くなど、学校関係者に要望を突き付けた。在校生を集めて熱弁を振るったのは、上原栄大滝孝三(昭2卒、故人)ら。昇格、移管して文部省から中学卒の認可を得ることは、軍の幹部候補生志願や、公務員の昇任試験受験の資格取得につながるため生徒は一歩も譲らなかった。

 生徒の行動は次第に張り詰め、真剣さを帯びていく。授業を放棄して校舎を抜け出し千本松原に集結、同盟休校に突入したこともあった。焦った教師陣が駆け付けて説得に努めたが、逆に生徒も学校管理者へあてた要求書を決議するなど、運動はエスカレート。生徒の思いは爆発する。

 大正十三年には甲種昇格をまず実現、続いて十五年には三枚橋から敷地を金岡村岡宮大豆島(現沼津市立五中付近)へ移転する。昭和二年に念願の県立移管と生徒たちの要望が次々と実現する。

 上原は「甲種に昇格して県立に移したいという希望は関係町村は勿論卒業生も在校生も持っていたし、地域の要望であった」。富士山を背景に広大な田園の真ん中にたたずむ大豆島の新校舎を目にして、「うれしくて涙が止めどもなく流れた」と七十周年記念の「松ヶ尾」に運動にかけた熱い思いをつづっている。

 国内全体で、民衆が自治の実現と改革に取り組んだ「大正デモクラシー」。生徒もまた改革の精神をおのずと身に着けていたのかもしれない。激動の昭和は、新校舎で幕開けする。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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