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 第2章 歩み 

大豆島時代

質実剛健の心意気高く
 「おまえは農家を継ぐのだからな」。農学校への進学を勧める父親の力強い声に、長沢唯保(昭3卒)は黙ってうなずいた。「学校に通ってきたほとんどが農家の長男。同じ境遇同士、みな気が合った」。昭和の授業は新校舎でスタートし、昭和六年、県立沼津農学校と改称。地域農家の後継者を育成する教育機関として、「よく学び、よく働け」の勤労教育の実現を目指した。

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心身を鍛練する学校生活を通して、質実剛健の気風が育った金岡村岡村宮大豆島(今の沼津五中付近)の校舎=「70年のあゆみ」から
 実践の場となった大豆島の校舎周辺は、見渡す限りの水田地帯。そ菜園、果樹園などの実習地がぐるりとグラウンドを囲み、養蚕室も備えた。クラスごとに設けられた農機具庫にはくわやすきが整然と並び、牛や豚などの家畜を飼育、付近には農業用水の清流が流れる―。農学校としての環境が整った。

 「東海の名門」とうたわれ始めたのはこのころで、昭和三年から約十一年間にわたり学校経営に手腕を振るった校長、森岡光信(故人)の力が大きい。森岡の狙いは県下一の学校づくり。農業実習から上がる純益を学校に還元する「特別会計制度」をいち早く提唱し、周囲の農学校が目を見張る約三百二十平方メートルの大温室を造成するなど、その心意気を体現した。

 森岡は道徳教育や風紀にことさら厳しく、「できるまで教育勅語を暗記させた」「持ち込み禁止のレインコートを火をつけて焼き、生徒全員を集めて叱った」などと、強烈な思い出を記憶に残す生徒もいる。自ら修身の教鞭(べん)を取って、農民の勤勉と倹約、積善の象徴である二宮尊徳の精神を追究した。薪を背負って書を読む二宮の銅像も設置し、生徒が実践に努めるよう教え諭した。

 学業のみに偏重することを懸念し、心身を鍛え、全校生徒の連帯感を深めることも忘れなかった。真夏に行ったグラウンドや農場の天地返しも集団訓練の一環で、足場の悪い大豆島の土壌を一・五メートルほど深耕する改良作業が繰り返し繰り返し生徒に課された。全員参加の千本浜の遠泳や、手足が凍る真冬の寒げいこも恒例で、川口勲(昭8卒)は「学校行事の至る所で鍛えられた。厳しかったが弱音を吐く者はいなかった」と振り返る。

 校長以下、教師も生徒の先頭に立ってくわを振るなど体を張り、学校全体に質実剛健の気風が根付いた。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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