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「国内は疲弊のどん底にある。海外に出て、進取の気性で思い切りやってこい」。教師の後押しを受けて、酒井文雄(昭9卒)も台湾行きを決意した一人。酒井は「日本を離れることに抵抗はなかった。むしろ学校で培った気力、体力を広い大地にぶつけてみたかった」と当時の心境を振り返る。 神戸港を発った酒井は、精糖工場の研究室で働き、広大なサトウキビ畑と格闘した。特に現地語を覚える苦労はひとしおで、耳に入る言葉やアクセントをノートに逐一書いては暗記する毎日が続いた。 一年後には言葉の不自由さもなくなり、現地の結婚式に招待されるなど生活を楽しむ余裕も。月夜の晩に胡弓の音色を聞いて寂しさを募らせることもあったが、「戦争も始まり二十歳まで生きられれば十分の覚悟。どっぷり現地の生活に漬かろうと開き直った」と酒井。台湾では入隊までのまる三年を過ごした。 海外に渡った生徒は、酒井と同じように苦労しながらも人一倍の努力で乗り切った。南米に渡ったきり二度と日本の土を踏めなかった生徒もいたが、地球の裏側で日本人特有の勤勉ぶりを発揮した。 沼津市の光林稔(昭16卒)は、自分が生まれる前にブラジルに渡った叔父、光林四郎の家族と交流を続けている。今年は孫のクリスティナさん(32)が来日し、家族でもてなした。稔は「叔父は家族の反対を押し切って旅立ったが、現地で大規模な鉄工場を経営したと聞いている。苦労しながらも現地の生活を全うしたのだろう」と思いをはせる。
(文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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