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 第2章 歩み 

海外便り

新天地に夢求め渡航
 「来(きた)れ南米に」「台湾より」―。校友会誌に、海を渡った卒業生からの「海外便り」が掲載され始めたのは昭和六年ごろ。折からの金融恐慌にあえぐ日本を世界大恐慌が直撃し、農村は疲弊、国民生活も窮乏を極めた。深刻な就職難に業を煮やし、新天地に夢を託してブラジルや台湾など世界に飛び出す生徒も出始めた。

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ブラジルなどの海外にいる卒業生から届いた便り=「昭和7年度校友会誌」から
 在校生は海外から届く先輩の便りを待ち望み、その壮大なスケールと未知なる生活に胸を高鳴らせた。ブラジルのサンパウロ州で就農した西家佐登里(昭3卒)は「一・五アルケール(一アルケール=約2・5ヘクタール)の原始林を開拓して先ずブラジルの主要作物の珈琲を植え付けた」と書き、西家より五年ほど早く、大正十三年に海を渡った光林四郎(大12卒、故人)も夏期に時計を一時間進める「サマータイム」を導入している現地の様子をセンセーショナルにつづっている。

 「国内は疲弊のどん底にある。海外に出て、進取の気性で思い切りやってこい」。教師の後押しを受けて、酒井文雄(昭9卒)も台湾行きを決意した一人。酒井は「日本を離れることに抵抗はなかった。むしろ学校で培った気力、体力を広い大地にぶつけてみたかった」と当時の心境を振り返る。

 神戸港を発った酒井は、精糖工場の研究室で働き、広大なサトウキビ畑と格闘した。特に現地語を覚える苦労はひとしおで、耳に入る言葉やアクセントをノートに逐一書いては暗記する毎日が続いた。

 一年後には言葉の不自由さもなくなり、現地の結婚式に招待されるなど生活を楽しむ余裕も。月夜の晩に胡弓の音色を聞いて寂しさを募らせることもあったが、「戦争も始まり二十歳まで生きられれば十分の覚悟。どっぷり現地の生活に漬かろうと開き直った」と酒井。台湾では入隊までのまる三年を過ごした。

 海外に渡った生徒は、酒井と同じように苦労しながらも人一倍の努力で乗り切った。南米に渡ったきり二度と日本の土を踏めなかった生徒もいたが、地球の裏側で日本人特有の勤勉ぶりを発揮した。  沼津市の光林稔(昭16卒)は、自分が生まれる前にブラジルに渡った叔父、光林四郎の家族と交流を続けている。今年は孫のクリスティナさん(32)が来日し、家族でもてなした。稔は「叔父は家族の反対を押し切って旅立ったが、現地で大規模な鉄工場を経営したと聞いている。苦労しながらも現地の生活を全うしたのだろう」と思いをはせる。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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