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 第2章 歩み 

北海道の援農

自らを鼓舞し食糧増産
 沼津駅の構内は見送りの家族や生徒、教師らの熱気でごった返していた。昭和十九年五月、北海道へ向かう深夜の臨時列車。戦時体制における農村労働力の担い手として、沼農の生徒五十一人が食糧増産の援農に旅立った。

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親元を離れて3カ月間を過ごした援農生活。雌阿寒岳に登って笑顔を見せる生徒たち=昭和19年7月
 援農先は北見市から南西約四十キロに位置する足寄郡陸別町。久保田正直(昭21卒)は「戦地へ赴く覚悟で訪れたが、眼前に広がる広大な大地に驚いた」と述懐する。畑作中心の農地では、馬力による欧米の農機具プラウ(鋤)やハロー(砕土機)などで合理的に管理され、「初めて見た大農式の営法に目を見張った」。

 生徒は出征兵士の留守宅や人手不足の農家に二人ずつ分宿した。数十ヘクタールもの農地を抱える大農家ばかりで、朝五時の起床から薄暮時まで、畑の耕作や除草、豆やトウキビ類の種まき、牧草刈りなどありとあらゆる農作業に身を粉にして取り組んだ。

 親元を離れての長期間の慣れない生活。当初は極度の緊張や気候の変化に生徒の健康も芳しくなかった。電気代わりのランプ。住居は粗雑な造りで、屋根のすき間から星の光が漏れた。秋山満(昭21卒)は「故郷が恋しかったが、奉仕の気持ちで来たのだからと自らを鼓舞した」。日記を一日も欠かさなかった秋山は、声に出せない家族への切ない思いをつづった。

 同級生とは毎週日曜の軍事教練で会うことができ、互いの苦労話に花を咲かせた。帰郷間際に訪れた雌阿寒岳の雄大な眺めを記憶に残す鈴木幸治(昭21卒)は「援農先では怒られてすねることもあったが、家族が自分の子のように接してくれたことが何よりもありがたかった」と北海道での三カ月間に思いをはせる。

 五十年後の平成六年、当時の援農隊は、久保田を団長に同級生二十五人で陸別町を再訪した。記憶の糸をたぐり寄せながら受け入れ農家を一軒一軒巡り、亡きあるじの子や孫らと再会。がっちりと握手を交わした室伏孝二(昭21卒)は「懐かしさから熱い涙が止めどもなく流れた」。感動の一方で、滞在家族の離農や軽便鉄道の廃線、暗黒の雑木林がすっかり開拓されるなど、時代の移り変わりをあらためて実感した。

 「五十年ぶりに実を結んだきずなを大切にしたい」とOBらは口をそろえ、静岡のお茶と北海道のジャガ芋がこまめに行き来を始めた。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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