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 第3章 農業に生きる 

ビニールハウス

施設園芸に先駆的役割
 昭和二十六年、キュウリ栽培の第一人者だった杉山敏彦(昭9卒)=沼津市島郷=のもとへ、東京からビニール販売メーカーの社員が訪ねてきた。開発されたばかりの農業用ビニールフィルムを差し出して、こう切り出した。「農作物の生産現場でぜひ使ってみてほしい」。杉山は持ち込まれた素材の手触りと抜群の光の透過性を見て、「まるで柔らかいガラスのよう。これなら生かせる」とうなった。

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自ら考案したビニールハウス内で研修生に囲まれる杉山さん(後段中央)=昭和35年ごろ杉山敏彦さん
 杉山は全国に先駆けてビニールハウス開発に挑んだ施設園芸のパイオニア。「ガラス温室より安価で、天候に左右されない屋根のある農業を進めようと必死だった」と振り返る。業者の依頼を快諾して研究を重ね、昭和三十三年、台風や強風に強い丸形で、鉄骨組み立て式の最新型ハウスの考案にこぎつけた。ハウスを連結できる特徴も従来の常識を覆す発案だった。

 「静岡型(杉山式)ハウス」として世に送り出すと、全国から問い合わせが殺到する。いとまなく訪れる視察者の対応に追われ、日本中の農業団体から依頼される講演会をフル回転でこなした。明日の農業を夢見る若手研修生も積極的に受け入れた。当時指導した青年たちは今や第一線の農業者として全国各地で活躍する。杉山は教え子と共に映った写真を眺めながら「今だに先生、先生と言われてしまう」と苦笑する。

 沼農卒後の一年間、神奈川県の二宮園芸試験場でみっちりと基礎を学んだ。そこで培った研究心を生かし、さまざまな農業技術の改良普及に心血を注いだ。病虫害に強いカボチャの台木にキュウリを接木して生育させる方法や、礫耕(水耕)栽培などにも先駆的に取り組み、あふれでるアイデアを次々と実用化してきた。

 生産者の中心になって立ち上げた「県胡瓜研究会」は八年後の昭和三十九年に、全国野菜園芸技術研究会(全野研)として全国組織に発展。豊富な経験と実績から杉山は副会長を二十年以上務め、活動を支え続けた。

 昭和の終焉(えん)と同時に杉山は農業の現役を退いた。「宅地化の波に押されて農業人口も減り、明治時代から香貫キュウリとして親しまれた産地の灯はすっかり消えてしまった」とポツリ。産地の基礎作りに尽力した祖父彦次郎や父親の弥重(明40卒、故人)の意思を継いで農業に携わってきた杉山は「常に農業先進地としてのプライドと希望を持って取り組んできた。自分は一番良いときにやらせてもらった」と来し方を振り返る。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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