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 第4章 続・歩み 

歴代校長(上)

「東海の名門」の礎築く
 地域農業の後継者を次々と世に送り出し、学校の基盤を整えた歴代校長たち。明治三十五年に産声を上げた駿東農林水産学校の初代松崎敬義をはじめ、数々の校長が農業教育の実践に手腕を振るった。

 県立移管後初の校長は清水吉彦(故人)。温厚実直な人柄で考古学をこよなく愛した清水は、機会あるごとに歴史のよもやま話をして生徒を引き付けた。「東海の名門」と呼ばれる基礎を作ったのが森岡光信(故人)。森岡は県内農学校に先駆けて農業実習特別会計制度を導入したほか、約百坪の大温室を建設。学問振興を狙いに「研究科」も設置した。同科は一年で廃止になるが、第一期生五人の一人、太白弘(昭12卒)は「校長は生徒の家を一軒一軒回って勧誘するなど殊の外熱心だった」と思い起こす。道徳教育に厳しく、色黒肌で生徒から「カラス」のあだ名で恐れられた。

 太平洋戦争のさ中、海軍工廠の拡張に伴う岡一色への校舎移転を指揮し、生徒の士気を鼓舞した岩崎亀(故人)。校長退任後は県議、裾野市長など要職を歴任した。体格の良い岩崎が校内をかっ歩する姿は存在感に満ちあふれ、生徒は陰ながら「カメさん」と呼んで親しんだ。OBによると、勉学などに秀でた生徒らに歴代の名物校長の名を表した「清水、森岡、岩崎賞」の勲章が贈られたという。

 本県俳句の隆盛を築いた俳人の野呂春眠は十四代校長の野呂元(故人)。俳誌「海廊」を創刊し、句集「紺とグレイ」を出すなど八十九歳まで県内俳壇の長老として活躍した。終戦直後に就任した野呂は「地主の皆さんが学校が借りている田や畑をすぐ返すようにと直談判に来られた」と頭を悩ませた思い出を松ケ尾七十周年の記念号に書いている。この間、学制改革を経て「沼津農業高」が誕生した。

 昭和二十年代後半から三十年代の充実期を島田由雄(故人)や東川美雄(故人)が担い、沼農最後の校長を山川浩太郎(故人)が務めた。山川は産業構造の変化に伴う農業校再編の流れに対し、独自の存続策を打ち出すなど北部高への変遷の布石を打った。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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