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昭和三十三年九月二十六日夜。伊豆半島を台風22号の猛威が襲った。中心部を流れる狩野川は各所で氾らんし、流域は一集落が流されるほどの大洪水に見舞われた。死者、行方不明者合わせて約千三百人。戦後、県内では最大規模といわれる狩野川台風は、田方平野一帯に凄(せい)惨な被害をもたらした。 救助に向かった下流の御園橋で、原川の全身に戦りつが走った。うねり狂う濁流。おびただしい数の流木、納屋のトタン、腹がぱんぱんに膨れた豚や牛などの家畜の死がい…。「その中に板に乗って流れて来た女性を発見した。ほかの隊員と橋からロープを投げたが橋下を抜ける際に見失い、必死に捜したが見つけられなかった」と唇をかむ。永代橋では橋げたすれすれまで水かさが増し、暗いうちに流れ着いた人々が次々に命を落としたという。 二十七日、登校した沼農の生徒たちは講堂に集められ、当時の校長故東川美雄から休校宣言を聞く。田農高に集合し、五、六人のグループに分かれて函南町や沼津市大平などの被災地区へ救助作業に派遣された。榊原正秋(昭35卒)は「移動の途中、田んぼに流木という流木が詰まり山積みになっていた。消防署員や住民が木をかき分け犠牲者を捜す姿にたじろいだ」と声を詰まらせる。 生徒たちは土砂で埋めつくされめちゃくちゃになった民家を一軒一軒巡り歩き、スコップで積もった泥をかき出す作業に追われた。家族を失い途方に暮れる人々の姿や、泥にまみれた死体が次々に担架で搬送される様子に緊張が走ったが、日ごろの柔軟さと農業実習で培った体力で、数日間にわたる作業をひたむきに続けた。 人の命や財産などありとあらゆるものを瞬時に奪い去った台風は、若い生徒の心には大きなショックだった。杉山博美(昭35卒)は「今でも台風と聞けば、とっさにあの時の光景が脳裏をよぎる。戦争を知らない世代の自分たちにとって、初めてせい惨な光景を目の当たりにした忘れられない体験」。その年、沼農では恒例だった体育祭を中止して校内の球技大会に変更した。浮いた費用を被災地へ送り、一刻も早い復興を心から願った。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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