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「自分を発掘せよ」「自分を偽るな」「あすのために鍛えよ」。昭和三十八年、後の校訓となる三つの生活信条を掲げ、「北部高」が産声を上げた。伝統ある校名を改称、農校から普通校への道を歩み始めた背景には、戦後ベビーブーム期の生徒急増、高度成長に伴う工業化、農業離れ…など、時代の変遷に伴う曲折があった。 三十年代半ばから、県内では農業校縮小の動きがヒタヒタと迫り、卒業生の進路にも追い打ちをかけた。実家を継ぐ農業後継者は昭和二十九年をピークに減少の一途。三十四年にはついに一般企業など、そのほかの就職者の割合が追い抜き、同校でも農業科を志望する生徒が減少する。「地域農業の後継者育成」を掲げ、伝統を維持してきた同窓会や学校関係者に焦燥感が走った。 当時の校長山川浩太郎(故人)は事態を案じ、農業科を継ぐ打開策として同校独自の「食品化学科」の設置を提案。「地域産業にプラスになる新しい学業を」と構想を練り、同窓会幹部らも理解を示した。ところが、あくまで普通校化を進めたい県教委が公に認めないなど、押し問答が続く。山川の強固な決断で昭和三十七年、農業教育の基本を残す食品化学科の第一期生を入学させた。同科は二期生までで廃止となるなど苦渋を繰り返すが、北部高誕生とともに普通科が新設され、同校は初めて男女共学になった。 教頭だった勝又善富は「校名は変わっても、沼農の名門意識を持った生徒が多かった。時代をしっかり認識した教員たちが、一丸となって新しい学校づくりに取り組んだ」。そうした中で新風も吹き始めていた。当時生徒会長を務めた羽切徳巳(昭39卒)は、それまで三年の三学期まで原則だった坊主頭を、全校男子が長髪で通学できるよう教師と掛け合った。「素行が悪ければイガグリ頭に戻して良いという条件付き。生徒数も多くなり皆の意識が変化した現れだったと思う」。 柿迫芳信(昭37卒)は「無論寂しさはあったが決して悲観するものではなかった。生徒それぞれが希望を持って就職や進学へ歩を進めた」。めまぐるしい変化の過渡期にいた生徒たちも、現実を見据えて学びやを巣立った。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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