<54>

 第4章 続・歩み 

食品化学科

缶詰や牛乳作りに没頭
fujinomiya
農産加工室でふかした大豆とこうじを混ぜる食品化学科の生徒たち=昭和41年度卒業アルバムから

 地域の農産物を生かした食品加工の技術を身に付け、産業教育を実践して職域の拡大を図る―。普通校への模索が続く昭和三十七年、新たに設置された「食品化学科」に、学校関係者や地域の中学校などから熱い視線が注がれた。  初年度に入学した生徒は一クラスの四十四人。食品の性質や構造を知るため、応用微生物や食品衛生、農産製造などの幅広い科目が課された。座学と実習でじっくりと学ぶ授業は、同校の歴史の中でも異色の存在だ。  生徒が具体的に手掛けたのはパンをはじめ、ミカンなど果物のジャム、みそやしょうゆ、タケノコの缶詰類など。学校の飼育牛から搾乳して乳酸飲料や牛乳の製造にも挑戦した。「生乳を殺菌して瓶詰めにした記憶がある。地下室ではマッシュルームも作った」と岩崎忠彦(昭41卒)。牛乳は昼食時の購買店にも並び「なかなか美味しかった」と飲みごたえの良さを思い出す普通科OBもいる。

 実習で使った農産加工室はボイラーや各種の薬品を置いた化学室、麹(こうじ)を仕込むスペースなども備え、設備の充実も学習環境を支えた。退屈しない加工実習には多くの生徒が興味深く取り組み、製造したみそやキムチなどは文化祭の即売コーナーに並んで市民や教員らの人気を集めた。勝又正行(昭40卒)は「文化祭では品評会があり、自分は前日に仕込んだカブの酢漬けを出品した。みな創意工夫し、面白かった」

 一クラスならではの連帯感は強かったが、この時、一期生の血気盛んな生徒の一部が騒ぎを起こした。世間が東京オリンピックに沸く昭和三十九年秋、近隣市の高校生と門池北側の山中で大乱闘して警察の厄介に。当時担任だった岩田成志は「程度の差こそあれ高校生のケンカはよくあるが、この時ばかりは行き過ぎた」。岩田の必死の交渉でかかわった生徒は停学処分で済んだが、相手校が日本刀を持っていたことで「まるでヤクザ並み」と新聞に書き立てられるなど一時学内は騒然となった。

 北部高の食品化学科は、当時同じ科を持っていた静岡農高に集約させたい県教委の意向などもあり、わずか二期生で廃止になるが、生徒たちの学ぶ意欲はおう盛だった。卒業生は学んだことを積極アピールして食品関連会社に就職を求めたり、大学に進学するなど多岐に及んだ。渡辺紀行(昭41卒)は「中学から好きだった化学に加え、食品を専門的に学ぼうと志高く入学した。誇りと希望にあふれた高校生活だった」と当時を懐かしむ。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


静岡新聞へ