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「よし、やるか」。昭和四十五年三月。卒業式のあと。園芸科の最後の卒業生、三十五人の心ががっちりと一つになった。そこに職員室から呼び出されて教室に入ってきたのが担任の野呂明(故人)。 生徒たちは山岳部で鳴らした野呂のたくましい体を担ぎ上げ、天井へ向かって胴上げを繰り返した。怒られたこと、優しく諭されたことを思い出しながら。「言い出しっぺはだれだったか。あうんの呼吸で始まった」。体をそっと床に降ろすと、野呂の目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。 北部高として八年がたち、新しい学校の歴史が着々と積み重ねられていた。普通科の生徒が急増する中で、唯一、農業色を残した園芸科の生徒は胸を張って学窓を巣立った。飯田恭久(昭45卒)は「今でも四年に一回は集まったりして、当時の仲間意識は薄れない」。 一クラスだけに生徒はちゃめっ気もたっぷりで、「自分たちは園芸科だという強い意識があったのでしょう。農業実習の時は体操着を着て、逆に体育の授業は作業着で出席したことがある」と栗林義之(昭45卒)は笑う。校内記録会の綱引きでは足にピタっとフィットする地下足袋姿で登場してダントツ優勝したことも。「これには普通科からクレームがついたようだが」と苦笑する当時の教師もいる。 果樹、野菜、造園、草花の四コースに分かれて生徒は授業に励んだが、普通高に一新されるために、最後は農業施設の片付けに追われることも多かったという。彼らが一年の時に担任を受け持った体育教諭の鳥居誠二は、「上級生も居なくなり“自分たちだけ”という孤立した格好の中で荒れた感もあった。でも彼らなりの団結力があり、一人ひとりは純朴でまじめな生徒ばかりだった」と振り返る。 温室や実習用教室はまだ残っていたが、昭和四十五年四月、学校は完全普通高に。「今までは農業高という強烈な個性で光っていた。それが普通高として名声をはせるのは、個性を持つことだと思う」と成田正昭(昭45卒)は学校誌「松ヶ尾」に書き記し、後輩に夢を託した。 当時は新しいクラブもできて活動も盛んに。校内ではグループサウンズに魅せられた生徒たちがギター音を響かせて自己主張するなど、新しい時代の胎動が始まっていた。 (文中敬称略) 【注】カッコ内は卒業年。 |
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