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 第4章 続・歩み 

校名変更

新イメージで飛躍期す
fujinomiya
校名変更し、新しいスタートを切った当時の城北高=昭和61年の同窓会報から

 「学校の名前が変わるらしい」。昭和六十年、うわさはあっという間に北部高生の間を駆け巡った。学校や同窓会がすでに検討に入っていることを知った生徒たちは、「自分の出身校になるのだから」とそわそわし、関心を持って動向を見守った。

 校名変更の背景には、「田舎っぽさ」が残るイメージの転換と、当時沼津市内に似た名前の高校があったために「よく間違えられた」という理由があった。同窓会とPTA、また学校当局も意向を同じくし、「新校名に北部高の将来を託そう」と具体的に話が進められた。

 事務長を務めていた岩本秀彦は、当時県議職にいた同窓会副会長の宮本譲(昭15卒)と校長の本間久男(故人)と一緒に県庁へ何度も足を運んだことを記憶している。「当時の県知事や県議会の政党幹部らを回って変更を訴えた」。熱意が通じたのか、「議会にタイミングよく議案提出され、そこまで長引くこともなく決着が付いた」。

 新しい名前は「沼津城北」。沼津の中心部にあった古城「沼津城」の北に位置することを表し、「伝統校としてふさわしい校名を」との考えで受け入れられたようだ。最後まで有力視されたのが「沼津南」、ほかにも「沼津東名」「沼津大手町」「沼津北陵」など数多くのアイデアが提案されたが、いずれも採用には至らなかった。

 同窓会長の山本一喜(昭29卒)は「何度も校名が変わる苦難はあったが、最終的には納得のいく名前として前向きに受け入れられた」。北部高に入学し、城北高の初めての生徒会長になった藤井勝彦(昭62卒)は「明るく開かれた学校祭を演出したくて立候補し、実際に達成できたのが思い出深い。校名も変わって、いずれは沼津を代表する高校に成長してほしい」と胸を張って生徒会活動を後輩に引き渡した。

 「校名変更への動きは沼農から北部高になった直後にも、盛り上がった時機があった」とある教師は明かす。当時は移行したばかりだったからか「計画段階で頓挫した」というが、かねてからの切願は約二十年の時を経て実現したことになる。

 新生城北高は、校歌の歌詞の一部修正のほか、正門の校名プレートや印刷物、部活のユニホームなどのこまごまとした変更作業に追われるが、特に気合を入れたのが校旗。重厚で高級感あふれる西陣織の校旗を新調し、現在も式典ごとに壇上に掲げられて存在感を誇っている。

(文中敬称略)

【注】カッコ内は卒業年。


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