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「当時は市商と言っても、同じ市立の静岡市高と間違えられ悔しい思いもした。運動の強かった市高に追い付き、追い越せ、という気持ちだっただけに胸が熱くなった」と新間は回想した。 世紀の祭典といわれた東京オリンピックが開催された三十九年以降、全国的なスポーツ熱の高まりも手伝い、市商の運動部も活況を見せる。自転車競技部の石関薫=昭44卒=が四十二年、埼玉国体自転車一万メートルポイントレースで全国Vの先べんを付けた二年後の新間の二冠。四十六年の全国高校総体では陸上競技部が男子四百メートルリレー、女子山岳部が登山競技で初の全国制覇を果たした。 女子山岳部のメンバーはリーダーの山田(旧姓鈴木)すみ江、サブリーダーの望月厚美、寺畑(旧姓望月)英子、近藤(旧姓望月)照子=いずれも昭47卒=の四人。硬派で鳴らす顧問氏原毅の指導は男子と変わらない厳しさだった。「山に歯ブラシ、せっけんなど持って行けば、『遊びじゃない』と怒られた。でも厳しさの中に優しさがあった。総体で金メダルをいただいたときは、みんな涙が止まらなかった」と望月。「明るさと元気」で栄冠をつかんだ四人の頑張りは後輩に引き継がれた。 女子山岳部の活躍に象徴されるように女子生徒の入学者は毎年増え続けていた。三十七年に始まった男女共学から五年目の四十二年、女子生徒数が男子生徒数を上回る。以降、女子生徒数は拡大を続けた。 時代は高度経済成長に乗り、商業教育では「即戦力となる教育」が求められていた。四十五年、静岡商業と伊東商業が、商業科以外に事務科・貿易科などを設置する小学科制に踏み切り、全国に波及していった。 この流れの中で市商は「ミクロよりマクロ。経済全体のダイナミクスを理解させることが重要」と、大学科制を選択し独自の路線を歩み始める。一方で、コンピューター時代の到来に対応し、四十五年から「電子計算機一般」をカリキュラムに加えたのを手始めに、四年後には本格的な情報処理の授業が始まる。 (敬称略)
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