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長谷川至(昭30卒)。昭和二十七年、静岡城内高校の入学式。「先生とは呼ばずに、さん付けで」。教師との会話では「先生」の敬称を付けるのが常識だっただけに、学校側の説明に面食らった。「半面、大人として扱ってもらっているのかとうれしかった」 恋愛関係にまで踏み込んで枕草子を解釈する授業でもその思いに変わりはなかった。「中学校では、表現の美しい文学という紹介だけで終わっていたはず」。応援団長も務め、伸び伸びとした高校生活を送った。「本人の自主性に任す自由な校風だった」 横浜国立大に進み、同三十五年、ヤマハ発動機に入社した。七年後、米国に渡り、オートバイの販売を受け持った。数年後、変動相場制が始まり、一ドル三百六十円だった相場が目まぐるしく変化した。仕入れ値が刻々と変わり、売値をいくらにしていいのかと混乱した。「今なら為替の予約という方法で相場のコストへの影響を読めるが、当時は初めてのことで、頭の中が真っ白になった。在庫を活用し、被害は最小限に抑えたが」 欧州勤務も経験し、常務、専務を経て平成十三年、社長に就任した。海外の仕事で成功する秘けつは他人に視点を置いた態度。「日本での肩書は通用しない。外国人の唯一の関心事は、その国の人々や経済のために何をしてくれるのかということ。目線を日本に置いていては相手にされない」 日本人の悪い癖として集団主義を挙げる。「今は将来が不安といって、みんなで意気消沈している。世界的に見れば、日本人はまだまだお金持ちだし、十分通用する。自主性をもって、冷静に自分の価値を見つめる姿勢が大切」 若者への期待感は大きい。「学校では答えのあるものを学ぶが、実社会では答えのない問題が押し寄せる。自分で答えをつくる訳です。そのためには自分で考え、判断する力が必要。答えが分かっていることを丸暗記してばかりいても、社会では通用しない。思考力と判断力を養う訓練をすべき」 長い海外生活で、視野の広さの必要性も痛感する。「静岡から日本、そして世界へと思考範囲を拡大してみたらどうだろう。発想が全く違ってくる」 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |