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木内貴史(昭34卒、旧姓増田、産業建設社長)。高校三年間、バスケットボールに明け暮れた。昭和三十三年八月四日、仙台市内の体育館で、集大成とも言えるインターハイの決勝戦を迎えた。 前半、京都の山城高に押されたが、後半は本来のリズムを取り戻し、塩津修己(昭35卒)のシュートで同点に追い付いた。騒然とした雰囲気の中、終了間際に桜田昌義(昭34卒)のシュートがネットに吸い込まれた。会場は沸き上がり、中継のラジオ放送も静高の逆転優勝を伝えた。だが、審判はキャリングと判定し、幻のシュートに終わった。 「大歓声で審判のホイッスルが聞こえなかった。一瞬、優勝かと思った」。延長で自ら二本のシュートを決めたが、力尽き、二点差で涙をのんだ。「四十数年前の試合が現実のようによみがえる。夢中で戦った。極限に達した疲労感も思い出す」 当時、バスケットボールの強豪、東京高等師範出身の監督馬渡猛=故人=と大学バスケットボール界で活躍する卒業生が静高で厳しい指導を続けていた。気を抜いたプレー、同じミスには怒号が飛び、卒業生は容赦なく激しい接触プレーを繰り広げた。コート上ではバスケットボールだけに集中し、大学の高度な技術も体で覚えた。「馬渡さんは心身ともバスケットボールに打ち込んでいた。指導の域を超えていた」 進学した慶応大で高い能力が認められ、一年でレギュラーの座を獲得し、二年の時、ローマ五輪(三十五年)の代表に抜擢された。「もっと優秀な人がいたので、初めは信じられなかったが、世界のバスケットボールを目にすることができると思い感激した」。 その五輪は全敗し、大きなショックを受けた。「初めて見るダンクシュート。プレーのうまさ、強さ、高さ、あらゆる面で世界のすごさを思い知らされた。バスケットボールに対する考え方が一変した」 四年後、住友金属工業の時代に東京五輪(三十九年)の代表に選ばれた。ローマの教訓から組織プレーで大型チームに対した。「長身選手には連係プレーで、パワーには俊敏さで対抗した。目標のベスト8には入れなかったが、十位に食い込んだ」 常葉学園が全国高校選抜優勝大会をはじめ二冠を達成するなど本県のバスケットボール界は上り調子。今年の国体への期待も膨らむ。「強くなりたいという気持ちを一人ひとりが持つことが大事」 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |