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織田元泰(昭31卒)。昭和二十年六月十九日、静岡市内に空襲警報が鳴り響き、米B29爆撃機が次々と押し寄せた。焼い弾が雨のように落下し、周囲の家々から火の手が上がった。「蒸し焼きになる。逃げろ」。父の一言で一家五人、布団をかぶって近くの水田に向かって駆け出した。 「ひゅー」という異音を耳にした瞬間、一メートル先に落ちる焼い弾を目にした。焼い弾は田のぬかるみにめり込み、爆発はしなかったが、飛散した土を頭に受けた弟の息が止まっていた。母が顔中をなめ回すと弟はやっと息を吹き返した。「七歳の時だった。幼心に、死ぬも生きるも偶然、歴史にほんろうされる運命みたいなものを感じた」。この経験が将来を決める原体験となった。 高齢者からの聞き取りや生徒同士の発表を中心とした中学の郷土学習で歴史への興味をかきたてられ、静高で世界史、日本史のおもしろさにのめり込んだ。世界史の教師は教科書にとらわれず、エピソードを織り交ぜて自己の世界観を語り、日本史の教師は軍隊経験を入れ込みながら実証的に歴史を分析した。「刺激的でレベルの高い授業だった。百分間の授業があっという間に終わった」 東京教育大(現・筑波大)の日本史学科に進んだ。「戦争体験が心の深みにあり、母国の歴史を根本から考えたかった」。卒業後、ふるさとの中学校で教師になり、掛川西高の勤務を経て昭和四十年から十五年間、母校の静高で日本史を教えた。「歴史についての見解はいろいろあっていいが、歴史の客観的事実は動かない。その事実をきっちりと認識し、しっかりした自己の歴史観を確立する必要がある」 静高の百年史、県教委に異動してからは県史の編集にも携わり、静岡城北、沼津東の校長を歴任し平成九年、静岡市教育長に就任した。「母校で教壇に立つ喜びを味わい、母校や郷土の歴史を編纂(さん)する作業もやりがいがあった」。思い出は尽きない。 若者たちの現代史への関心の薄さを危ぶむ。「史実に基づいて歴史を把握しておかないと、感情や理論だけの歴史観となり、未来への正しい展望を持てなくなる。日本人としてどう生きるかは現代史を学ぶことから始まる」 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |