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高井平八(昭22卒、日本水連理事)。「静岡市内から強い水泳選手を輩出したい」。昭和四十三年、静中水泳部の先輩加藤恒平(昭4卒)と県内初の日本水泳連盟公認スイミングスクール「フリッパー・スイミング・クラブ」を創立した。 無料で小中学生に水泳を教えるスクールで、指導者はいずれも静中、静高水泳部のOB。無報酬で指導をした。拠点のプールはなく、静高などのプールを借りたり、公営プールを利用したりして練習を続けた。夏場は高校水泳部に迷惑をかけないようにと午前五時から練習を開始した。 スクールの子どもたちの中に小学生だった稲葉和世がいた。細身だったが、脚力が素晴らしく、平泳ぎの練習を始めるとみるみるうちに頭角を現し、日本室内選手権で入賞した。中学で教師だった原保(昭29卒)の指導を受けた稲葉はその後も順調に力を伸ばし、高校生の時、昭和五十一年のモントリオール五輪代表に選ばれた。 「その年はスクールの子どもも活躍した。全日本年齢別選手権で小学生日本一を達成し、女子チームは未公認ながら日本学童新も樹立した。スクールの目的が実現し、感激で体が宙に浮く気分だった。クラブ現会長の名波謙三さん(昭20卒)をはじめ、みなさんの力のおかげ」 県内水泳界の振興に力を入れ、昭和六十二年、県水泳連盟理事長に就任し、平成十一年、会長に就いた。夏季国体の監督、総監督、団長も務めた。県体育協会競技力向上委員長、副会長も歴任し、平成十四年、勲五等瑞宝章を受章した。 静中時代は水泳部に属したが、戦局が悪化するにつれ、部活動はままならなくなった。学徒動員によって軍需工場で働き、二十年、志願して陸軍に入隊した。列車を守るため、機関砲を備えた無蓋(がい)車に乗り込んだ。「二度、米軍機に襲われた。機関砲を撃っても当たらなかった。米軍機の機銃掃射の後、空薬きょうが落ちてきて鉄かぶとに当たり、思わず、やられたと叫んだこともあった」 日本水泳連盟の古橋広之進名誉会長の言葉「魚になるまで泳げ」に心酔する。「最後の最後まで、とことんやり抜く。この精神が大切」。近づいた静岡国体にも意欲を燃やす。「主催県として総合の天皇杯を目指す。水泳だけでは達成できないが、頑張って天皇杯に結び付くような成績を残したい」 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |