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秋野寿三夫(昭22卒、島田商工会議所副会頭)。太平洋戦争が始まった翌年の昭和十七年から五年間、静中に在学した。一、二年生の時、生徒たちは勤労奉仕で、働き手が応召された農家を手伝った。「田植えや稲刈り、いも掘りなどさまざまな作業をしました」。戦争が激化した昭和十九年、軍需工場への勤労動員が始まった。三年生の夏だった。 島田市の自宅から汽車を利用して静岡市の三菱重工業静岡発動機製作所に通う日々。危険な目にも遭った。米軍の艦載機が飛来し、列車目掛けて機銃を掃射した。「座席を外して窓の所に立て、その下に身を伏せた。そんなことをしても弾は貫通するので意味はないが、藁(わら)をもつかむ思いだった」。同じ車両の人が銃弾を受け、死亡したこともあった。「生きた心地はしなかったが、必死になって通った」 終戦後間もなく、仮校舎などで授業は再開されたが、汽車通学生の苦労は終わらなかった。輸送力の低下で定期券が使えなくなり、通学しようにも通えなくなった。困っていた生徒を救ったのは復員や疎開で地元に戻っていた先輩たち。「地元で塾を開き、私たちに数学や英語を教えてくれたので、学業が遅れることはありませんでした」 慶応大予科から同大に進み卒業後、静岡銀行に入行した。東京勤務時代、平野繁太郎元頭取(故人)の秘書を務めた。「薫陶を受けました。教えていただいたことを今でも参考にしています」。「小さなことは情をもって行い、大事には理をもって行え」は感銘を受けた言葉だ。 営業渉外部長を勤め、昭和五十八年、同行を退職し、島田信用金庫理事に就いた。平成七年、理事長に。中小企業、商店、個人との取引が多い。「地域に密着した仕事です。少しでも地元のお役に立ちたい」 長引く不況で地域経済も体力が低下している。「適切な融資に加え、コンサルタント的な業務がより重要になっている。経営者の方々と十分に話し合い、業績向上につながる対策、あるいは改善策を打ち出す仕事にも力を入れています」 「調和」を信条とする。「取引先、同僚、部下、また家庭内、夫婦の間でもバランスが必要。独善的になっていないか常に注意している」。公徳心を大切にする。「公共に対する責任感をもってほしい。道徳は人間生活の基本です」 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |