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第1章 卒業生の思い

(2003年6月4日掲載)
人間の力の限界痛感
高等海難審判庁参審員
 清水逸郎氏(80)

昭和53年の宮城県沖地震の様子を語る清水逸郎氏=東京都内

 清水逸郎(昭16卒)。平成三年から参審員を務め、気象が影響したとみられる海難事故の審判に参加する。就任して間もなく、昭和六十一年に発生した清水の海洋調査船「へりおす」沈没事故の審理が始まった。

 船の航路は今でも手に取るように浮かぶ。「悪天候によって、どの程度の風が吹き、どのくらいの波が起きたのかなどを立証しました」

 昭和十一年、静中に入学した。家が小笠郡佐倉村(現浜岡町)だったため、四年間の学校生活のうち一年間は親類の世話になり、三年間は恩師の家に下宿した。「学校近くの望月亮吉先生のお宅にごやっかいになりました。私を含めて四、五人が下宿していて、先生ご夫妻とともに家庭的に楽しく過ごしました」

 十五年一月十五日、静岡大火に遭遇した。「呼び出されて学校の警戒に当たりました。強い西風にあおられて煙は横に流れるほどでした。夜になってから風が弱まり、煙が立ち上るようになって延焼は止まりました」。幸い学校は被災せず、生徒たちは昼間、火災現場に出掛けていって後片付けを手伝った。

 一高に進学した。家業の農業と天候の深い関係に注目し、気象の研究を志したが、第二次大戦のぼっ発で航空機設計に進路を変更し、東京帝大航空機体学科に進んだ。徴兵検査を受け、卒業後、浜松の飛行隊に入隊する予定だったが、その前に終戦を迎えた。

 戦後、気象庁に入り、観測部に勤務した。五十一年、仙台管区気象台長に就任し、二年後、宮城県沖地震=マグニチュード(M)7・4=を経験した。斜面の造成地で倒壊した住宅を目のあたりにした。「造成部分の土が十分に固まっていなかったため、柱が沈み、家が倒れてしまいました。人間が自ら招いた被害が目立ちました」

 気象庁を定年退職した後、宇宙開発事業団非常勤理事に就き、ロケット打ち上げ時の天気予報を担当した。「予想より風が強いとロケットの進路が狂ってしまいます。予報には神経をすり減らしました」

 参審員などの経験を通して人間の力の限界を痛感する。「突発時は正常時のように素早く、的確に判断することは無理だと思います。判断力が低下した時に人間をカバーする対策が取られていないと事故防止は難しい」

(文中敬称略)

(火、水、木曜日に掲載します。)



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