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清水汪(ひろし)(昭19卒)。昭和十四年、静中に入学し、硬式庭球部に入った。学校は五年制。上級生が多く、一年生はローラー引きや球拾いに追われた。先輩の練習が終わり、ボールを打つ時は日が落ちかけていた。そんな日々が続いた。 当時、県内の旧制中学で硬式庭球部があったのは静中だけ。対外試合の相手は旧制の静高と浜松高等工(いずれも現静大)だった。静中生たちは健闘し、上級生は高校生をしのぐ好プレーを随所に見せた。「相手は入学して始めた人が多かった。こっちは体は小さいが、練習量は豊富だった」 四年の夏、四年ぶりに開かれた関東中等学校選手権大会に仲間と一緒に出場した。ダブルスで静中勢は関東地方の選手を圧倒し、一、二位を独占した。静中は前回大会でもダブルス、シングルスを制していた。「優勝カップを持ち帰ることができて愉快だった。自分たちのペアは準優勝を果たした」 陸軍士官学校予科に進んだが、終戦で復員し、旧制静高に入学した。東大法学部を卒業し、二十六年、大蔵省に入省した。五十九年、環境事務次官で退職するまで、銀行局総務課長、関東信越国税局長、内閣官房内閣審議室長、関税局長などの要職を歴任した。 内閣審議室長に就いて間もない五十二年、日本赤軍が日航機を乗っ取るダッカ事件が発生した。即座に関係省庁の関係者を集め、対策の協議に入った。緊迫する局面。徹夜で検討が続いた。「『人命は地球より重い』との福田赳夫総理の決断で服役者の釈放、身代金の支払いが決まった。それまで、こうした事件に対応する部署が政府になく、その後、安全保障室が設けられた」 五十四年に成立した元号法も印象深い。法案審議に当たり、政府委員として答弁席に座った。「天皇制にも関係することなので、国会で通らなかったら辞職する覚悟でした。成立した時は胸をなで下ろしました」 八年前から、国立環境研究所を支援する地球・人間環境フォーラムの理事長を務める。「研究所の海水・大気成分調査の一部を担ったり、観測機器の点検など環境研究の基礎部分を支えています」。昨年までは静岡精華学園の理事長だった。「学園百周年事業の道筋もついたので、バトンタッチさせてもらいました。故郷のお役に立てたなら幸いです」 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |