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第1章 卒業生の思い

(2003年6月18日掲載)
支間30メートルの鉄道橋完工
海外鉄道技術協力協会最高技術顧問
 菅原操氏(76)

鉄道橋建設について語る菅原操氏=東京都内

 菅原操(昭19卒)。昭和二十七年から国鉄鉄道技術研究所(現鉄道総合技術研究所)に勤務し、プレストレストコンクリート(PC)の研究に没頭していた。ピアノ線で圧縮力を与えて強度を高めたコンクリートを応用した支間の長い鉄道橋の建設を目指した。

 二十八年、滋賀県の国鉄信楽線(現信楽高原鉄道)の鉄道橋が豪雨で被害を受け、橋脚のない鉄道橋の建設が持ち上がった。PCの採用が決まり、技術指導に当たった。「現場で型枠にコンクリートを打ち込み、橋げたを造った。初めてのことで緊張した」

 翌年、支間三十メートルの鉄道橋が完成した。それまで国内にあったPC橋梁(きょうりょう)の支間は十メートル前後。日本初の本格的なPC橋梁となった。強度も十分で、三十年後の測定でも問題はなかった。

 その後、PC橋梁建設の先進地、欧州で調査に当たり、帰国後、国鉄東京工事局土木課長として東海道新幹線の開業に向けた工事に携わり、四十五年、東京工業大に設けられた社会工学科担当の教授に就いた。この間、国土総合開発審議会、運輸政策審議会、運輸技術審議会などの政府関係委員を務めた。

 大阪工事局長に就任して山陽新幹線の整備に当たっていた五十年ごろ、イランのパーレビ国王が高速鉄道の建設を日本に依頼した。数十人の専門家とともに同国に渡り、約千キロの高速鉄道のマスタープランを作った。「岩塩を含んだ砂漠で、列車の運行によってまき上がる塩分にどう対応するかがプランを作成する上での大きな課題だった。プランはできたが、革命で高速鉄道は実現しなかった」

 国鉄施設局長、常務理事北海道総局長を歴任し、六十三年から五年間、鉄道プロジェクトの調査など海外協力を行う海外鉄道技術協力協会理事長を務めた。

 静中時代は相撲に熱を入れ、プール横の土俵で土にまみれた。「草薙運動場の建設では先輩、級友と一緒に土を運び、整地をした。新しくできた土俵での大会はよい思い出になった」。静中四年を修了し、陸軍予科士官学校に入校した。一年後、満州の飛行場で操縦訓練を受けていた時に終戦を迎え、復員後、東京帝大(現東大)に進んだ。

 日本モノレール協会副会長も務め、新交通システムへの造詣(ぞうけい)も深い。

(文中敬称略)

(火、水、木曜日に掲載します。)



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