![]() | <46> |
浜下武志(昭37卒)。静高サッカー部に所属した。ポジションはフルバックが多かった。二年先輩に高校生離れしたキーパーの泉山泰一(昭35卒)がいた。泉山は昭和三十五年マレーシアで開かれた第二回アジア・ユース大会の代表に選ばれた。「泉山さんはバネがあって、素晴らしい瞬発力を見せた。ハイレベルだった」。後に日本代表となる杉山隆一の清水東高との対戦もいい思い出だ。 中学時代から放課後、静岡市中心街の書店をめぐるのが常だった。哲学関係の書物を探し、手当たり次第に読んだ。「自我、自己とは何か、と考えることが好きだった」。高校二年のころ、戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」をはじめ、戦争体験の記録を何冊も読んだ。「戦争、そしてアジアの現状、日本のかかわりをもっと知らなければいけないと感じた」 東大、同大大学院で東洋史を専攻し、中国の近現代社会経済史、華僑・華人史の研究に専念した。香港大アジア研究センター研究助手になり、香港上海銀行の歴史資料を読み続けた。「それまでの研究者が使うことがなかった資料が大量にあった。北京でなく香港、広東など南からの視点で中国を見ることによって、東アジアや東南アジアという大きな地域の中での中国を考え、華僑のネットワークからも中国を見直すことができた」 帰国後、東洋学の専門研究機関の東洋文庫の奨励研究員になった。「外国語の資料で中国を外から見つめた」。一橋大の専任講師、助教授時代も大学の豊富な経済資料を基に日本とアジアの関係を突き詰めた。東大東洋文化研究所長を務め、現在、京大東南アジア研究センター教授と東大東洋文化研究所教授(客員)。 「国家が前面に出る以前は地域の組み合わせだった。国家が歴史のすべての単位とすることは長い歴史を考える上で不十分。また、現実も中国と台湾、朝鮮半島の分断など一つの国家という枠だけでは収まらない状況にある。地域という枠組を頭に入れた方がアジアはよく分かる」 日本各地も過去、現在とも海を通してアジア各地と結び付いている。「九州は東シナ海、黄海によって中国と、日本海沿岸も海で朝鮮半島やロシアなどとつながっている。海域という中で日本と海外の関係を見るべきだろう」 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |