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昭和三十年に夏の全国高校野球選手権に出場した種茂雅之(昭31卒)。プロ野球の東映(現日本ハム)に在籍していた三十七年、日本シリーズで最優秀選手に輝いた。 磐田市出身。「父親がズックの切れ端でグローブを作ってくれた」ことがきっかけで、小学四年から野球を始めた。当初は投手だったが、中学時代に捕手へ転向。三年生の県大会で準優勝した活躍ぶりを買われ、十月に静岡市内の中学に転校。翌年、静高に入学した。 一年から正捕手の座を獲得した。主将として臨んだ三十年夏の県大会は第8シードながら、準決勝で前年全国準優勝の静岡商、決勝で沼津東を撃破、山静大会も勝ち抜いた。全国大会は開幕試合。城東(四国代表)に一安打完封負けを喫した。「県大会は守備とチームワークで勝ち抜いたが、全国では力が出し切れなかった。甲子園は夢の中だった。印象があまりない」 立教大に進学。入学当時は上級生に長嶋茂雄や杉浦忠、本屋敷錦吾ら豪華な顔触れをそろえ、四期連続優勝した黄金時代。片岡宏雄の存在で目立たなかったが、「守りとスローイングには自信があった」。四年になると正捕手に座り、春準優勝、秋には優勝を果たした。 大学卒業後、丸善石油に入社し、都市対抗野球で活躍。「いきなりプロではやっていける自信がなかったが、一年で自分なりにめどが立った」と三十六年八月にプロへ飛び込んだ。入団二年目。水原茂率いる東映はパ・リーグを初制覇し、阪神と日本一を争った。連敗で迎えた第三戦からマスクをかぶったが、引き分けに終わった。次の試合から攻撃面でチームを助けた。 四戦で逆転2点適時打、五戦で2安打、六戦でも逆転2点適時打を放つなど四連勝の立役者になった。五試合で14打数5安打5打点、打率3割5分7厘はチーム二位。エースの土橋正幸とともにMVPに輝いた。「自分に自信が付いた。野球人生で最高の思い出」 四十七年に阪急(現オリックス)へ移籍し、同年ダイヤモンドグラブ賞を受賞した。四十九年に引退。実働十四年だった。その後もプロ野球界に籍を置き、阪急と日本ハムの二軍監督、バッテリーコーチやオリックスのスカウトなどを歴任した。「選手の育成は生かすも殺すもコーチの責任。バッテリーコーチ時代は、いつでもキャッチャーの味方になるように心掛けた」 「引退後も携わり、野球は生活の一部だった。出合えて良かったと思う」。現在は日本ティーボール協会の理事を務め、首都圏の小、中学校などで普及活動を展開している。 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |