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静高の甲子園初出場は、旧制中時代の大正十三年。以降、創立百二十五周年を全国ベスト16で飾った今年まで、二十一回の出場を重ねてきた。優勝一回、準優勝二回。その戦歴をひもとくと、静高が輩出した数々の野球人たちの姿が浮かぶ。 全国制覇は、初出場から三年目の大正十五年夏。県勢初の快挙だった。主力はスローカーブが武器の左腕上野精三(昭4卒、故人)と強打の捕手福島鐐(昭2卒、故人)。福島は主将としても卓抜した統率力を発揮し、「ナイン・ワン(九人一丸)」を合言葉にチームをまとめ上げた。 準々決勝で前橋中を延長の末に下して波に乗り、決勝に進んだ。相手は満州(現中国東北部)代表の大連商。0―0で迎えた二回、静中は上野の暴投で先制を許したが、タイムを取って駆け寄った福島は上野を思いやり、「自分がサインを勘違いした」と謝った。上野はその後好投を続け、2―1と逆転、日本一に輝いた。 これが戦前の黄金期のスタートとなる。上野に続き、八木芳太郎(旧姓鈴木、昭8卒、故人)、柔道から転じた捕手宇佐美一夫(昭6卒)ら全国級の選手が次々に育ち、春の選抜は大正十五年から連続八回、夏も大正十五年の優勝以降、四回甲子園の土を踏んだ。 昭和七年夏の甲子園初戦は、苦い思い出となった。後の阪神の主砲、景浦将ら強打者ぞろいの松山商戦。静中は、八木が八回まで十奪三振の力投を見せ、二回に先制した一点を守ったまま九回裏の守備に入った。 二死二塁、八木は最後の打者を仕留めたかに見えたが、打球は二塁走者を警戒してベースに寄っていた遊撃手の脇を抜け、同点。さらに景浦の安打を挟んで次打者のゴロが一塁手の前で大きく弾んで外野に抜け、逆転サヨナラ負けを喫した。野球部はこの試合を最後に、しばらく夏の甲子園から遠ざかる。 当時の主力は、その後も野球界で活躍した。上野は慶応大に進み、後に監督としても六大学リーグを春夏連覇。日石監督も務めた。一塁手、三番として全国制覇を支えた国友正一(昭3卒、故人)は、立教大で初のリーグ優勝に貢献、戦後はセ・リーグ審判に。八木と宇佐見はプロ入りし、草創期の南海(現ダイエー)、国鉄(現ヤクルト)でそれぞれ存在感を示した。 名主将福島は上野とともに慶応大で活躍、「大選手の器」と期待されるが、病気のため二十六歳で早逝した。 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |