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第2章 人物誌

(2003年9月10日掲載)
惜敗を超え念願の頂点
バスケットボール部

インターハイ全国制覇を目前にあと1勝に泣いた静高=昭和33年、仙台市

 バスケットボール部は昭和三十年代半ば、馬渡猛監督(故人)の下、全国の強豪としのぎを削った。インターハイは、主将木内貴史(昭34卒、旧姓増田)らを擁して臨んだ昭和三十三年、決勝まで勝ち上がったが、京都の強豪山城を相手に大接戦の末敗れ、惜しくも優勝を逃す。三十四年も準優勝にとどまり、全国制覇を目前に一勝に泣く。

 翌三十五年は、“三度目の正直”の優勝に向け、いよいよ期待が高まった。この年の主将は、一年から全国を経験してきた粟野吉洲(昭36卒)。チームは順調に仕上がり、インハイ準優勝を経験したOBとの対戦でも負け知らずだった。

 県大会を制し迎えた全国大会の二回戦。倉敷工と対戦した粟野は、チャージングを誘ったプレーで、相手と激しく接触、あおむけに倒れ頭を強打する。試合には勝ったものの、直後の準々決勝、中大杉並戦は途中欠場。主軸を欠いたチームは善戦及ばず敗れた。

 「申し訳ない気持ちだった。今でも、あの日の暑さとともに思い出す」と粟野。仕切り直しの国体では悔しさをぶつけ、二位の賞状を手にした。

 粟野は、五輪代表として活躍した先輩木内に次ぎ、バスケット界で最も活躍した卒業生の一人。東京教育大(現筑波大)では同期の安達宣郎(昭36卒)とともに一年から主力となり、三年で東京五輪の強化選手に。代表にこそ選ばれなかったが、ブラジルで開かれた世界選手権に参加するなど、経験を積んだ。

 これを皮切りに、粟野は四十年のハンガリーユニバーシアード、四十二年の東京ユニバーシアードと国際舞台で活躍。四十五年にタイ・バンコクで開かれたアジア大会では主将としてチームを率い、三位入賞を果たす。

 大学卒業後は日本鋼管(現NKK)でプレーし、八年間の現役生活で三回の天皇杯に貢献。その後はコーチも務めた。コーチ時代には、国交が回復したばかりの中国へ遠征した思い出も。「情報がないままに対戦したが、バスケット王国中国の片りんを垣間見た」

 三十年代の静高は、「バスケットは格闘技」という馬渡監督の厳しい指導に加え、大学で活躍するOBらと、手加減なしの激しい練習でお互いを高め合った。惜敗の数々が実を結んだのは、粟野の卒業後の三十七年。秋田国体で念願の優勝を果たし、全国の頂点を極めた。

(文中敬称略)

(火、水、木曜日に掲載します。)



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