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静高三年だった昭和三十五年、マレーシアで開かれた第二回アジアユースサッカー大会の日本代表に選ばれたゴールキーパー泉山泰一(昭35卒)。瞬発力と抜群の柔軟性で、同期の井田勝通(同)とともに城内中時代から注目された。 優勝候補ビルマ(現ミャンマー)との初戦は、大会直前に同チームの英国人監督が急逝したことから形勢は一転する。ビルマの技を勢いで封じ込め、4―2の勝利。泉山も海外での初勝利に意気が上がるが、試合直後、高熱で倒れる。 熱に加え、アスピリンの中毒症状が出て動けなくなり、続くフィリピン戦は欠場。日本は2―2で分け、ブロック優勝をかけてマレーシアとの一戦に臨む。泉山は復帰したものの「体はふらふら」。引き気味になったバックラインの外から自在にシュートを打たれ、1―5の大敗を喫した。 インドネシアと対戦した三位決定戦は再びベンチを暖めたが、日本は苦手な左足を使わせ、相手のミスを誘って勝った。 静高に入学した三十二年、藤枝東の静岡国体制覇に発奮する。翌年の国体予選は決勝に進み、後に日本代表で活躍した杉山隆一の清水東と対戦した。大雨で泥田状態のグラウンドに静高得意のパスワークは乱れた。「清水東はキックアンドラッシュ中心。コンディションは静高に不利だった」。1―2の惜敗だった。 卒業後は早稲田大に入り、一年生から関東リーグで活躍した。四年次のチームは関東リーグ、天皇杯などタイトルを総なめ。「練習試合も含めて負けたのは早慶戦だけ。キーパーは暇だとからかわれるほど強かった」 不況の直撃を受けて企業チーム入りを断念し、しばらくサッカーから遠ざかるが、三十歳を前に静岡に戻ると、静岡クラブなどでプレーを続けた。今年一月まで六年にわたり、清水エスパルスの後援会事務局長も務めた。 卒業生のサッカー人脈は厚く、県サッカー協会の歴代理事長は杉江悟一(大13卒、故人)、井出為米夫(昭2卒、故人)、小林一男(昭6卒)、松永弘道(昭28卒)、掘田哲爾(昭29卒)らが名を連ねる。松永は高校サッカーの指導者として優れた手腕を発揮、堀田は少年サッカーの育成を図り、底辺の拡大に貢献した。プレーヤーではベルリン五輪のゴールキーパー佐野理平(昭5卒、故人)、メルボルン五輪のフルバック大村和市郎(昭26卒、故人)らの存在も忘れがたい。 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |