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「頭数が足りない。明日の試合に出てくれないか」。白井三郎(旧姓渡辺、昭35卒)は静高二年の秋、ラグビー部の友人長倉秀男(昭35卒、故人)に頼み込まれた。建築家を志し、工芸部で木工に熱中していたころ。見かねて手を貸したのがラグビーとの出会いだった。 試合はインターハイ予選。白井以下、各部寄せ集めの混成チームは全盛期の沼津商相手に惨敗したが、このメンバーは、翌秋までラグビーを掛け持ちした。翌年は県で準優勝し、東海大会に進出。二位同士が戦うBブロックで優勝し、周囲を驚かせた。 東京教育大(現筑波大)に進み、ラグビーを続けた。静高が甲子園に出場した一年の夏、応援に出掛けた大阪で、夏合宿に戻れないでいたラグビー部監督の斉藤欣三(昭24卒)から代わりを頼まれる。後輩を教えるようになると、早速“オニ”の異名を取った。大学時代はフッカーだったが、部員不足であらゆるポジションを経験したのが後に生きた。 卒業後は高校教員になり、島田工へ赴任。ラグビー部を創設し、四年の指導で「全国を狙える」と確信した矢先、清水南へ異動になる。開校間もない同校は、初代校長の方針でラグビーが校技とされ、ラグビー部もあったが無名。赴任初年度の入部は三人きりだった。 一月に最後の大会を迎えるラグビーは、進学を志す生徒には負担が重く、部員確保は最大の課題。「自分で決意を固めないと、どちらも中途半端になる」。生徒が悩めば無理に背中を押さず、徹底的に考えさせた。周囲の理解は次第に広がり、保護者会は「サブ(白井)に任せれば大丈夫」と新入生の親を説得してくれた。 赴任四年目の昭和四十七年、信静地区の代表として初めて花園へ。以降常連となり、清水南を指導した十八年間で、計十二回の出場を果たす。教え子からは同志社大、リコーで活躍し、日本代表としてワールドカップに出場した広瀬務も育った。 指導生活は波らん万丈。花園出場三度目でつかんだ初勝利の直後には、「厳しくてついて行けない」と部員にごっそり去られた。教え子でもある長男が練習中の事故で障害を負うつらい経験もしたが、「ラグビーは人間形成の最良の媒体」と信じる。 指導者、大人の責任に厳しい目を向ける。「子供は純粋。話せば分かるし、納得すればまっすぐ伸びる。今の子供の問題は、子供の核心に迫れない大人の問題です」 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |