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第2章 人物誌

(2003年9月24日掲載)
脳神経外科の礎を確立
東大名誉教授
佐野圭司氏

「医療事故の根は、医師や医療従事者が忙しすぎること」と指摘する佐野圭司氏=富士宮市の富士脳障害研究所

 「脳神経外科の分野は当時、外科医がわずかに取り組んでいたくらい。とても専門分野として確立されてはいませんでした」。東大医学部に日本初の脳神経外科講座が設置されたのは昭和三十七年。初代教授に就任した佐野圭司(昭14卒)は以降、日本の脳神経外科治療の発展に先駆的な役割を果たしてきた。

 脳腫瘍(しゅよう)治療では、東大脳研究外科チームとともに、病巣部分に放射能の感受性を増す物質を取り込ませ、選択的に病巣を破壊する放射線療法を開発。四十二年には、ホウ素と中性子の核反応を利用して腫瘍を除く原子炉治療を日本で初めて実施した。

 大宮町(現富士宮市)出身。体が弱く、静中時代は大病で一年休学した。「突然高熱が出て、長いこと寝たきり。おかげであまりいい思い出がなく残念。ただこれで体質が変わったのか、その後は丈夫になった」

 父親と同じ道を志し、旧制静高から東大医学部へ進んだ。外科医としての出発は、南伊豆にあった海軍病院。二十年、大学の年限を一年短縮され、終戦を目前に軍医として赴いた。近くの海軍特攻隊基地から、米軍の爆撃を受けた兵士が連日担ぎ込まれた。「けがの手当てに加え、盲腸の手術を初めて体験したりした」

 戦後は東大第一外科へ入局。大学院特別研究生として脳神経外科を学んだ。二十六年、博士号取得と同時に文部省(当時)から派遣され、カリフォルニア大サンフランシスコ校に留学。意識障害を伴う特殊なてんかん発作「精神運動発作」の病理研究で、脳の海馬と呼ばれる部分に原因があることを突き止めた。「技術的に得るものは多くなかったが、かえって自分でもやれると思えた」。自信を得て帰国した。

 東大で十九年教授を務め、退官後は名誉教授に。帝京大で脳神経外科の拡充に貢献し、日本学術会議会員も務めた。昭和六十一年から富士脳障害研究所理事長、同付属病院院長。平成五年からは、日本脳神経財団理事長を兼務する。

 再生医療は、脳神経外科においても最大のテーマ。「外傷で脳を損傷して麻痺があるような場合、損傷部分に脳細胞を移植し、機能を回復させるような治療が可能になってくるでしょう」と近い将来の成果を期待する。一方で、医療現場の実情には不安も。「医療事故の根は現場が忙しすぎることにある。日本の一床あたりの医療従事者は米国の十分の一。あまりに少なすぎます」

(文中敬称略)

(火、水、木曜日に掲載します。)



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