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第3章 校史

(2003年10月28日掲載)
「中学課」の名称で産声
草創期〜明治後期

西草深時代の静中校舎(明治20年ごろ)

 現在の静岡県が形成された明治九年、国内には計二百一校の公私立中学があった。うち百十八校は東京に集中。一府十八県にはまだ一校も開設されていなかった。

 同年八月、県内初の中学として沼津中が開校。十一年初頭には、浜松、韮山にも相次いで開設されたが、県庁所在地の静岡に中学がない状態が続いた。中学開設に対する地域の強い要望を背景に、同年八月十日、静岡師範学校内に中学課の開設が決まる。開校日は不明だが事実上九月とされた。県内四番目の中学だった。

 明治維新政府が強力に進める近代化施策の下で全国的に自由民権運動が高まり、県会(正式の県議会)が開設されたのもこの年だ。この県会で十二年、初めて「静岡中学校」の名称が正式に用いられた。

 その後、不況下の財政難を背景に中学校の統合が促進され、十九年七月、県内でも全中学校の合併を促進し、静岡師範学校から中学課の機能を分離、独立した静岡中学校へと統合された。卒業生名簿はこの年から始まることになる。

 校名は八月、一県一中学校体制を目指す勅令によって「静岡尋常中学校」に改称され、九月から教育活動に入った。

 生徒は全県から集まり下宿生もいたため、同年末までに寄宿舎が建てられた。二十年三月に迎えた第一回卒業式では、四人の卒業生を送り出した。十一月には現静岡市西草深町に新築校舎が落成する。生徒数は三百人に近づいていた。

 十九年に着工した東海道線の敷設工事が二十二年に終わり、全線が開通した。沿線の近代化が音を立てて動き出した。

 中学への入学希望者が次第に増えてきたことから、国は二十四年、各府県に複数の中学を開設することや郡市町村への設置も認めた。日本は二十七年八月、清国へ宣戦布告をして日清戦争に突入。同校は十二月、安倍川の河原で、旅順港陥落を記念した初の発火訓練をした。

 戦争を挟んで変化した産業構造や経済状況に応じて、中等教育、実業教育は急速に膨張し、やがて県内は七中学時代に入った。

 三十年十一月、西草深に住んでいた江戸幕府最後の将軍だった徳川慶喜公が、約三十年の静岡生活を終えて東京に転居している。時代は大きく変わりつつあった。

(文中敬称略)

(火、水、木曜日に掲載します。)



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