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第3章 校史

(2003年10月29日掲載)
画期的な高等学校開設
明治後期―大正期

甲子園大会で初優勝し静岡駅に帰ってきた静中野球部(大正15年8月)

 明治三十四年、安倍郡安東村に移転して校舎を新築し、寄宿舎も備えた。校友会活動は活発化し、同年までに柔道部、撃剣部、野球部、弓術部、水泳部、ローンテニス部が設置された。

 七月に二週間をかけた「修学大旅行」を試行したことが話題になった。東京・高輪の泉岳寺、日光東照宮、足尾銅山、磐梯山、松島、水戸など一府九県を訪ねている。史跡と同時に問題化していた足尾鉱毒事件の現場を見るなど、社会的意識の高さを示した。

 このころ、入学志願者も増加。受験競争率は一・二倍を超し、上級学校進学者も増えた。

 三十七年、日露戦争が始まると、校内は軍事的雰囲気が強くなった。兵式体操、発火演習をはじめ出征、帰還兵士の送迎、戦死者の葬儀など、学校生活が戦時色一色に染まっていった。教師も戦場に散ったが、幸い在学生が従軍することはなかった。

 三十八年九月終戦。死傷者約十一万八千人を出して勝利したが、犠牲に比べて実利のない戦いに、全国的な講和反対運動が起きた。この時の授業ボイコット事件はこうした世相の反映とされる。

 明治四十年代初め、在学生は五百三十人前後。士族の在学生が18%を占めていた。

 大正元年、県内の公立中学校の生徒総数は約二千六百人。静中は五学級五百八十一人だった。生徒は全県から集まったが、県中部出身者が三分の二を占めた。

 三年八月、日本は日英同盟を理由に第一次世界大戦に参戦。卒業生も歩兵第三十四連隊で戦った。戦時下、政府臨時教育会議の答申に基づいて、大規模な高等教育機関拡張計画が推進され、十一年八月、静岡高等学校(旧制)が安東村大岩に開校した。同校と浜松高等工業の開校は高等教育機関のなかった本県にとって画期的なことだった。

 中学は田園の中にあり、竜爪山の方角は賤機山ろくなどに農家が点在するだけ。市街地に隣接する高等学校の立地は、大正デモクラシー精神の反映とされた。

 十三年、野球部が本県と神奈川県の神静大会を制して第十回全国中等学校優勝野球大会に初出場したが、1回戦で延長の末、惜敗した。十五年の第十二回大会は決勝に進出。満州代表の大連商業を2―1で破り、甲子園での初優勝を果たした。

(文中敬称略)

(火、水、木曜日に掲載します。)



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