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昭和は不景気と金融恐慌で幕を開けた。苦境を乗り切ろうと、積極的な大陸政策をとる政府の下で軍部の独走が始まった。昭和三年、済南事件の起きた中国山東省へ出動する陸軍歩兵第三四連隊を、三年生以上が静岡駅に見送っている。 この年は同校創立五十周年。野球熱の高揚を受けて静岡中野球後援会ができ、同窓会の援助で運動場が拡張され、水泳部の黄金期を生むプールも建設された。 五年の天皇行幸時には天覧授業が行われ、行幸一周年記念として、六年から静商との野球定期戦が始まった。深刻な不況の中でこの秋、満州事変、続いて翌年に五・一五事件が起き、ファシズムが台頭してきた。 過熱する一方の野球ブームを制する野球統制令が敷かれ、社会人チームとの試合や応援団が禁止された。九年には射撃部が生まれ、校内の愛国心は一段と高揚。十一年のベルリン五輪に卒業生三人がサッカーと水泳の選手として出場し、明るい話題となった。 十二年七月に日中戦争が始まると、静岡中の教師や卒業生、父兄の出征が相次いだ。出征兵士の増加に伴い、弾よけに霊験があるという竜爪山の穂積神社がにぎわい、全校登山が行われた。十三年の夏休みから集団勤労作業が始まり、十四年からは用宗方面への全校徹夜行軍が恒例化した。 十五年一月、静岡大火が起きた。約五千二百世帯と中学生七百六十人余り(うち静中生百三十五人)が被災した。県は公私立中生徒延べ一万人を復興事業に動員した。 十六年、校友会は修練団を経て報国隊に改組され、クラブは班に、学帽は戦闘帽になった。 十二月八日、太平洋戦争開戦。十八年までに運動班は相次いで解散した。 校長は「お国のため」と生徒に軍関係への進学を勧めた。枢軸国イタリアの敗戦で「やがてドイツも日本も負ける」と授業で話した教師に対し、「国賊だ」と生徒たちが騒いだ記録が残る。 十九年から正規の授業として上級生の学徒動員が通年化した。二十年春には運動場を畑にして芋などを植え、低学年は食糧増産に努めた。県内各校で学徒義勇隊が創設され、授業は停止した。 六月十九日深夜から静岡市街は米軍機の大空襲を受け、約二万四千世帯が被災、約二千人が死亡した。静中も焼い弾の直撃を受けて主要施設をすべて失った。 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |