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昭和二十年の敗戦の日を境に国政はすべて連合国軍総司令部(GHQ)の指揮下に入った。戦前の軍国主義的教育の一掃と新たな民主主義教育の理念に基づいて、新制中学の建設など具体的な施策が進められた。 静岡空襲で長谷校舎を失い、推定半数以上の生徒が戦災を受けていた。九月に仮校舎で授業を再開すると、勉学途上で陸海軍諸学校や航空隊に入隊していた生徒が続々復学してきた。 二十一年二月、住友校舎が火災に遭い、三菱仮校舎に移転した。六月、神格を否定した昭和天皇が民情視察に行幸し、天覧授業が行われた。七月には野球部が復活した。 二十二年五月、待望の城内校舎に移転。兵舎を改造した薄暗い教室、駿府城の石垣とお堀の水、広大な運動場などが卒業生の記憶にある。十一月に広い運動場で復興運動大会を開き、運動部も続々と復活した。 二十三年度から校名を県立静岡第一高校とし、定時制、通信制を開設した。劣悪な教育環境からの復興と発展に貢献したのが、PTAと学校後援団体のギョウ高会だった。 不況が悪化する中で二十五年に朝鮮戦争が始まると、特需ブームで日本経済は息を吹き返した。 校名を静岡城内高校にした二十五年度の生徒数は千人余り。男女共学制がほぼ確立した。静岡市と安倍郡出身者が約九割を占め、県内全域から生徒が集まった戦前とは全く様相が変わった。 新制高校は選択制と単位制で生徒の個性と進路の多様化に応じた。通年制ホームルームが二十六年度、週五日制授業が二十八年度まで続くなど、従来の中等教育の殻を破る斬新な試みが行われた。 サッカー部は二十五年、全国高校選手権中部ブロック大会で県勢初の優勝。二十六年一月の第二回全国大会準々決勝まで勝ち進んだ。 日本は同年、日米安保条約を結び、二十七年四月にようやく独立した。学舎はこの年、長谷の新築校舎に移転している。 八月、陸上競技部の仁科久が松本市の全国高校陸上競技大会にただ一人出場し、走り幅跳びで優勝した。文芸部の同人雑誌「塔」には、後の芥川賞受賞作家三木卓(本名冨田三樹)が、戦後社会の曲がり角への危機感を背景に自らの世代の心情を主張する小説を発表した。 (文中敬称略) (火、水、木曜日に掲載します。) |