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ワサビ(中)

心血を注いで田を守る

天城山系のワサビ栽培の歴史は、自然災害との戦いの繰り返しだ。生産者は壊滅的な被害を受けながら、その度に復旧作業に心血を注いだ。


自力で作った石庭わさび園で作業する浅田さん=中伊豆町地蔵堂
 全国わさび生産者協議会長を務めた中伊豆町の塩谷和義(昭和23卒)もその一人。昭和三十三年の狩野川台風は、天城山系のワサビ沢の九割を流失させた。強烈な鉄砲水が堤防を壊し、沢や河川は跡形もなかった。

 塩谷は悲報に追い打ちされる。実家近くに嫁いだ姉が自宅ごと流された。捜索活動に費やす日々。副区長だったため援助物資の配布にも奔走した。「自分のワサビ沢に行ったのは一カ月後。落ち込んだり、ぐずぐずしてる場合じゃなかった」。

 災害復興委員長を任され、寝食を忘れるほどの復旧作業が一年ほど続いた。組合員を引っ張り、役場との土地改良や区画整理、河川工事に関する交渉に精力を傾けた。

 ワサビで再び収入を得たのは七年後。塩谷は「台風で失ったものは計り知れないが、生産者らは山仕事や日雇いで食いつなぎ、復興に向けて互いに力を合わせた」と懐かしむ。

 天城湯ケ島町の杉山信昌(昭18卒)は「火薬で山石を吹き飛ばして、畳石式工法の積み石にした。形になるのに三年以上かかった」と振り返る。地元の組合長時代はモノレール事業を推進し、重労働からの解放に貢献した。

 中伊豆町の若手生産者、浅田譲治(昭55卒)は、幾多の災害を経験した父親から「ワサビ田の構造を知っておけ」と勧められ、自力でワサビ田を作った。「もし今、災害が起きたら、ワサビに見切りをつける生産者が多いだろう。昔のように人手は無い。だから、一人でも復旧できる力をつけたかった」。

 東京農大時に取得した大型建設機械の免許を生かし、山林だった大見川沿岸部を開拓。ワサビ仕事の合間を縫って石積みを始めた。伝統の畳石式工法の仕組みを実践で学び、五年がかりで完成させた。十年ほど前から「石庭わさび園」として一般開放もしている。

 浅田は昭和六十一年に第一回全国わさび品評会で農林水産大臣賞を受賞。ことし一月には県農業経営士の認定を受けた。

(文中敬称略)
 【注】カッコ内は卒業年。

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